要約:作家アリスシリーズには多くのクィア描写が登場するため、SOGIをとりまく世相の変化を読み取れるのではないかと考え、該当箇所を確認した。すると、「同性愛描写」はシリーズ初期においてショックバリューとして扱われたものの、後期では調査の抜け目なさや、キャラクターに深みを与える挿話などとして使用されていることが分かった。一方「トランスジェンダー描写」は、殺人事件のギミックなどへの使われ方から、性自認にまつわる当時の認識を読み取れた。
1.この文章の目的
「作家アリスシリーズ」は、有栖川有栖が書くミステリシリーズの通称だ。犯罪学の研究者として数々の犯罪現場に赴く「火村英生」を主な探偵役、その友人であるミステリ作家「有栖川有栖(アリス)」を主な助手役とする。1992年に発売された『46番目の密室』を1冊目として、2024年12月までに30冊近くの長編・短編集が刊行されている。
このシリーズは、1992年から2024年までの間に阪神・淡路大震災やコロナウイルス感染拡大などを含む様々な世相を描写しながらも、その間に主人公が2年しか歳を重ねない「サザエさん時空」を採用しており、さらにはほとんどの作品が同じ主人公の一人称であるため、一種の「定点観測」で様々な事柄に関する時流を感じることができるシリーズとなっている。
この文章では、シリーズにおける性的マイノリティ描写の変化を追っていく。
注意
・作家アリスシリーズの主人公は作者と同名のため、ここでは「アリス」と書いて区別する。
・作家アリスシリーズ作品及び『闇の喇叭』のネタバレが含まれます。
・本文引用においては、関連描写のみをコンパクトに参照するため、その一部を(前略)(中略)(後略)で省略している。また、ミステリというジャンルに鑑み、アリス及び火村以外のキャラクター名については、姓名の区別なくアルファベットで伏せている。また、補足事項は[ ]で囲い引用文中に挿入している。実際の記述については、ぜひお手元の書籍を当たっていただきたい。
・作品名後の括弧()は作品の初出年。引用・参照した版については文末をご確認ください。
2.「火村は口笛を吹いた」:トリックとなるトランスジェンダー
ここでは、短編「海より深い川」と「彼女か彼か」ぞれぞれのトランスジェンダー描写を確認するとともに、トランスジェンダーと異性装が混同されがちであった時代背景に鑑み、異性装を趣味とするキャラクターが登場する長編『ダリの繭』についても触れる。
異性装との混同
短編集『ブラジル蝶の謎』(1996)収録の短編「彼女か彼か」(1995)では、「オカマバー」に勤める証言者が、殺人事件の被害者Aについて次のように語る。
「お金があれば、手術して女になって外国で暮らそうか、なんて真剣に話してたことがある。(中略)[Aは]ふだんは男として生活してて、プライベートな時間に女になってたんだけど、だんだん本当の女になりたい、という気持ちが強くなっていった(後略)
彼女か彼か. 『ブラジル蝶の謎』
上記の証言や、その他の情報をあわせると、被害者は性別適合手術を望むクローゼットのMtFトランスジェンダーのように思われる。しかし、火村はこのキャラクターを男性と捉えている。そのことがあらわされる箇所を次に引用する。
「Aさんが女装の趣味があったことはご存知でしたか?」
彼女か彼か. 『ブラジル蝶の謎』
「彼はどんな人間だったんですか?」
彼女か彼か. 『ブラジル蝶の謎』
一方、視点人物であるアリスもまた、違和感を覚える描写があるものの、あくまで女装という認識を改めることはない。そのことを示す箇所を引用する。
彼、という代名詞にふと違和感を覚えてしまう。彼女と呼ぶ方が適切なのではないか、と。
彼女か彼か. 『ブラジル蝶の謎』
Bは一枚の写真を机上に置いた。生前の被害者を写したものらしい。「これはこれは」一瞥して、火村は口笛を吹いた。釣り上がり気味に引いた眉毛。その下の切れ長の二重瞼。薄い笑みをたたえた赤い唇。いずれもいかにも女性らしい気品を備えていて、男だと聞いてから見ているのにうっかり見とれてしまいそうになる。
彼女か彼か. 『ブラジル蝶の謎』
女装をした彼の写真を示して、(後略)
彼女か彼か. 『ブラジル蝶の謎』
これら火村とアリスによる「被害者は男性である」という見解は、そのまま読者へのヒントともなっている。この殺人事件は、容疑者のひとりが成した「被害者と一緒の部屋に泊まった」という証言が、「証言が本当であれば、被害者の髭が伸びており、容疑者は被害者が男性だと気づいたはずだから」という理屈で打ち破られることで、解決に至るからだ。
—
トランスジェンダーおよびその性別が深く性別適合手術と強く結びつけられているのが、この物語の特徴だ。
作中にはどちらの名称も出てこないが、 「性別適合手術」は1990年代半ばまで「性転換手術」と呼ばれていた(野宮, 2024)。この「性転換」という名称が、当時の人に「手術によって性別が変わる≒手術前は異性装と変わらない」という印象を与えたことは想像に難くない。このイメージは、作内からも読み取れる。
例えば、今の人が上記のトリックを読んだ場合は、おそらく「被害者がホルモン療法を受けていた場合は体毛が薄くなるだろうから、髭に気づかない可能性は高い。よって、ホルモン療法の有無について伏せられているのは、読者に対してフェアではない」と考えるだろう。『性同一性障害に関する診断と治療のガイドライン』第4版より前は、ホルモン療法の次に手術療法という順番が奨励されていた(中塚, 2024)。また、医療脱毛も今ほど一般的ではないものの当時から存在した。
しかし、あくまで「手術」のみを「あちらとこちら」を分ける壁として捉える物語は、Aほどに埋没度が高い人物に対してさえも、「手術無しでも女性として暮らしていけるトランスジェンダー」という可能性を俎上に上げない。そればかりか、脆弱な立場に置かれたマイノリティが「本物の女性」かジャッジすることを、謎解きのギミックにすることを許してしまっている。
そしてこの物語は、「(被害者は)彼女か彼か」というタイトルに、「彼」と回答して幕を閉じる。
時代特有のギミック
短編「海より深い川」(2004)は、『小説NON』にて連載されたのち単行本未収録となっており、ファンの間で「幻の作品」とされていたが、2025年に短編集『砂男』に収録された。「彼女か彼か」と比べると、この物語はより深くトランスジェンダーの社会的立場が描写されている――そして、この物語においても、トランスジェンダー性はギミックとして使われている。
この小説には、トランスジェンダー男性Cおよびトランスジェンダー女性Dが、容疑者および被害者として登場する。この2人は合意の上でお互いの戸籍を交換しており、このことが捜査を混乱させることになる。殺害の動機は、本来は自分のものとなるはずだった親族からの遺産を巡る金銭トラブルだ。次に、作中4ヶ所から引用する。
①
「交際していた女性がいなくても、一方的に想いを寄せていた相手がいたのかもしれませんよ。あるいは過去の女性のことで苦しんでいたのかも」
「女性とは限らないんですけどね(中略)Dはゲイの気があったらしいので。男より女に生まれたかったんだそうです」
男好きの男、という意味のゲイとは違うらしい。海より深い川. 『小説NON』
②
DとCは、ともに同性愛者であり、かつ自分のセクシャリティに強い違和感を抱いていた。二人は同じ悩みを持つ者として、どこかで接点を持ったのではあるまいか。そして、さらに想像を逞しくすると、一般的ではない形でお互いに惹かれ合ったのかもしれない。
「こういうことは、ないのかな」私はおずおずと口にする。「DとCは、精神と肉体の性別が乖離していたらしい。だとしたら、Dが男性的なCを愛し、Cが女性的なDを愛するという形での恋愛関係が成立したのかも」海より深い川. 『小説NON』
③
「彼女[C]は同性愛者だった、と知人が証言している。子供の頃から、『本当は男に生まれたかった』と口癖のように話していたそうだから、性同一性障害の可能性もある」
海より深い川. 『小説NON』
④
「彼らは性転換によって肉体を変えたがっていた。金さえあれば、それは医学的に可能だ。しかし、男から女へ、女から男へ生まれ変わるためには、なお大きな障害がある。国家が性の移行を法律的に認めていない。同性間の婚姻も不可能だ(後略)
海より深い川. 『小説NON』
①からは、サイドキャラクターである記者が「ゲイ」を「ほかの性別に生まれたかった人」という意味で使っていること、②からはアリスが「セクシャリティ」という言葉を「ジェンダーアイデンティティ」と混同していることが読み取れる。これは、当時のSOGIの認識として特別に疎いものではない。過去より「トランスジェンダー女性は女装した男性」と誤解されがちであり、これにより男性同性愛者とトランスジェンダー女性が混同されることはままあった。
一方で、火村の言葉である③と④は、より詳細に当時のトランスジェンダー当事者を取り巻く状況を物語っている。
まず最初に、③の「性同一性障害」とはGender-Identity Disorderの訳語だ。「トランスジェンダー」などの言葉が使われるようになって長いため、若い人では知らない人も多いだろう。なお、2022年の国際疾病分類の改訂により「性同一性障害」は当事者を指す正式な呼称では無くなっている(新しく「性別不合」が対応する言葉となるが、定義としてはやや異なっている)(中塚, 2024)。
次に、④の「彼らは性転換によって肉体を変えたがっていた」について。前述の通り、性別適合手術は、1990年代半ばまで「性転換手術」と呼ばれていた。日本では、1964年のブルーボーイ事件から2003年の特例法(後述)施行までは性別適合手術が難しいものであったことから、CおよびDは海外での手術を検討していたのだろう。
そして、「国家が性の移行を法律的に認めていない」について。実はこの小説の公開年の前年(2003年)には「性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律」が施行され、手術を含むいろいろな条件を満たすことで戸籍の性別を変更することができるようになっていた。連載打ち合わせ時点では、特例法の施行前だったのだろう。特例法の検討にあわせて関連トピックスのメディアの露出が増えていただろうから、それがネタになったのかもしれない。
つまりこの物語は、日本におけるトランスジェンダーの暮らしの転換期に発表された物語なのだ。有栖川有栖は「性別の異なるトランスジェンダー同士の戸籍の入れ替え」というトリックを別シリーズ長編『闇の喇叭』(2010)で再利用しているが、その舞台がファンタジー世界(過去の日本の架空バージョン)となっている理由もおそらくここにある。発表年にすでに時代遅れだったトリックを再利用するためには、時代設定を過去にするか、架空の世界を舞台にするしかない。
「海より深い川」の被害者は、一貫して分析的な目を向けられていた「彼女か彼か」の被害者よりも、同情的に描かれている。しかしながら、トランスジェンダーを描写する際の、国際的ともいえるクリシェからは抜け出せていない。
Netflixドキュメンタリー映画『Disclosure』には、ハリウッドにおいて遺体役や犠牲者役を演じてきたトランスジェンダーの役者などへインタビューを行う段があり(38分頃から)、その中でGLAADのNick Adamsが次のように語っている。
残念ながら、ハリウッドは長年にわたって、特に警察ドラマや病院ドラマにおいて、「トランスジェンダー被害者」というナラティブを助長してきた。これはたいてい、いくつかの異なるテンプレートに当てはまる。一つは「トランスジェンダーであるがために殺される」というもの。別のバージョンは、病院ドラマにおける、「ホルモンに命を脅かされてERに搬送されてくる」というものや、「トランスジェンダーのキャラクターが自らの出生時の性別に関連した癌で死にかけている」というものだ。
Unfortunately, Hollywood has spent many, many years, especially on police shows and hospital shows, perpetrating the transgender victim narrative, and it usually falls into a couple of different tropes. One, someone is murdered because they are transgender. Or the other version, in the hospital drama, is they come into the ER, and their hormones are killing them. Or the trans character is dying from some cancer that’s affiliated with their birth sex.Disclosure. Netflix.
その次に例示される映画やドラマのスニペットをぜひ観ていただきたい。長年にわたって多くの脚本家が、トランスジェンダーの死をトランスジェンダー性のみと絡めて描写してきたことや、そのことに当事者が心を痛めていることが分かるだろう。
なお、有栖川有栖は版を重ねる際に改訂などを行うことがある。「海より深い川」にはトランスジェンダーに関する間違った情報などが含まれるため、2025年1月の『砂男』収録にあたっても一定の配慮があるかと予想していたが、本文で更新されたのは些末な点(Tの名前の変更、及び言い回しの一箇所変更)のみであった。しかし、前書およびセクション末注記に、次の文言が付記されていた。
前者[海より深い川]は、短編集に入れそこねているうちに法律が改正され、古びてしまいました。(中略)また、前者については付言すると、「このままでは発表できない」と判断し、〈現実の日本ではない架空の日本〉を舞台にした長編(空閑純を探偵役とするシリーズの第一作『闇の喇叭』)にアイディアを流用したため、お蔵入りさせるしかなくなりました。
が、両作品ともその背景をお伝えした上ならば興味深く読んでいただけるかもしれない、と考え直して本書に収めた次第です。海より深い川. 『砂男』
*特定の要件を満たせば戸籍上の性別の変更が可能となる性同一性障害特例法が二〇〇三年七月に成立し、その一年後に施行した。
なお、現在は性同一性障害という医学上の疾患名はなくなり、性別不合や性別違和と診断される。海より深い川. 『砂男』
収録作の候補は編集担当者が選んだようだが、トランスジェンダー差別が蔓延る昨今に本を手に取る読者に対して、これが充分な付記になると判断したのだとしたら、(個人的には)かなり豪気に思われる。
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その他、関連する描写
上記「彼女か彼か」および「海より深い川」において、視点人物らが手術をしていないトランスジェンダーを異性装と捉えていることを確認した。ここで、このシリーズが女装そのものについては、どのような捉え方をしているかも確認したい。
『ダリの繭』(1995)では、容疑者Eが異性装を嗜むことが明かされる。その動機を詳細に語る興味深いシーンがあるので、少し長いが引用する。
「私[E]の趣味とは、女装です。女性になって街を歩くことなんです」
Fはぼかんと口を半開きにしたまま、しばし次の質問を考えていた。やがて──
「あなたはゲイなんですか?」
「いいえ。そうではないんです。私の趣味はただ、女性と同じ恰好をして、気持ちも女性になりきって雑踏にまぎれること。自分は男である、というスイッチを切ることなんです」
「それが……楽しい?」
「はい。女性に変身することは、刺潡的で、わくわくして、楽しいには違いがないんですが、それと同時に、ひと時、男をやめるということが私を楽にさせてくれました。生まれてから死ぬまでのべつまくなしに男をやらなくてもいい、やかましくて見飽きた部屋からちょっと抜け出して、隣の部屋で休憩することもできるんだ、と気がつき、実際に試してみたら、とてもリラックスできたんです。(中略)
「ストレス解消ということですか」
Gがひと言でまとめてしまいかけると、Eは首を振った。
「そういう言い方をすると嘘になってしまいます。公私とも順風満帆でストレスなんかなかったとしても、私は女性になって楽しんだでしょう。二つの性を往来するという自由は、単なる暇潰しや気散じを超越した喜びです」
(中略)
「Hさんに化けました。(中略)あの日の私の目的は、単に男を捨てて女になる、というだけではなく、彼女になりきることでした。歩き方も、挙指も、精一杯真似たつもりです。フロントでHという名を使ったところから、ゲームは始まっていました」
「Hになりきる。彼女への愛情が屈折してそうなったんですか?」問われたEは片頰に手を当てた。生物学的な女性以上に女性的な、名女形のような優雅な仕草だった。
「そうです。多分……そうなんでしょう」
「何年か前、あなたはHさんに言い寄ったことがあると聞いていますよ」Gが直截に言った。「正直言って、あなたの趣味は私にはよく理解できない。あなたは女性に対して、男性としての興味も持っているんですか?」
「はい。私はまぎれもなく男です。ただ、時々それを忘れたくなるだけです。性転換願望もありません。私は男であることに一応は満足していますから、男稼業を廃業する気はさらさらありません。男でいることが鬱陶しいのではなく、女性になってしまいたいのでもなく、二つの性を行き来したいんです」『ダリの繭』
Eは、異性愛者やシス男性としての自認を確固として持っている。その上で、「自分は男である、というスイッチを切る」や「まぎれもなく男です。ただ、時々それを忘れたくなるだけです」と、男性性から解放されるために異性装が有用なのだと語る。その上で、あえて想い人に変装したのは、愛情が屈折した故のものだと認める。
刑事たちはこのやりとりを通じて、Eの性的嗜好を疑い、無理解を示す。これは、視点人物であるアリスと火村とは対照的なものであり、この直後のやりとりからそれがうかがえる。Eの女装は、アリバイを混乱させる便利なギミックとしての役割だけでなく、主人公たちの(比較的)フラットな視点を描写するのにも一役買っているのだ。
「けど、Eにあんなユニークな趣味があったとは気がつかんかったな。まぁ、そう聞いてみたら、彼は華奢で、色白で、女装ぐらいこなせそうにも思える」
「異性装癖か。優しい趣味じゃないか」
「理解できるわな」
「ああ、もちろん理解できる」
私たちは理解理解と繰り返した。彼と私は時々このように、自分が他者を理解していることを口に出して確認し合う。とても共感などできない主義、思想、趣味でも、理解は可能でありたい、という共通の認識からくる二人ひと組の口癖だ。『ダリの繭』
3.「他意はまったくありません」:動機としての同性愛
ここまではトランスジェンダー描写を追ってきたが、ここからは同性愛描写にフォーカスして改めてシリーズを追っていきたい。第3節では、長編5作(46番目の密室、乱鴉の島、鍵の掛かった男、狩人の悪夢、捜査線上の夕映え)および短編2作(異形の客、残酷な揺り籠)における同性愛描写を確認・比較する。
最初の事件
長編『46番目の密室』(1992)は、作家アリスシリーズの1作目となる。作中終盤、容疑者Iが動機を告白する場面で、Iと被害者Jの関係が明かされる。
「……先生[J]の嫉妬が原因でした(中略)嫉妬といっても、それはKさんを奪う私、に対しての嫉妬ではありません。先生を棄ててKさんに走る私、に対する嫉妬でした。私たちの関係は隠しておかなくてはならないものだったんです(中略)先生は翌日の午後、私を部屋に呼びつけ、Kと結婚するというのなら二人の関係を彼女に告げると脅してきました。そんなことになれば、彼女は私から逃げてしまうことは間違いありません。ええ、きっと。彼女の美意識は私のような人種を──」
「もう言うな!」私は叫んでいた。
(中略)
「(中略)私[I]は娼婦のように欲得ずくだったわけじゃない。先生と取引をしていたわけでもない。私にはそんな性癖があったんです。そして、たいていの遊びに飽きてきていた先生にも。Kと出会って、私は初めて女性を愛することを知りました。彼女がもう少し早く私の前に現われてくれていたら……」
(中略)
私はKが不憫でならなかった。そう、彼女のためにも、この話はこの場で葬ってしまう方がいい。墓石も建てずに埋めてしまうべき真実もあるのだ。『46番目の密室』
Iは、Jと自身について、欲得ずくの関係ではないことと、2人ともに「そんな性癖[≒性質]」があったのだと告白する。また、「Kと出会って、私は初めて女性を愛することを知りました」という言葉は、それ以前は男性を愛した経験のみがあると読み取れる。
上記事実について、Iは、Kの「美意識」が許さないだろうと推測し、アウティングにより交際を打ち切られることを恐れて殺人へと至る。
この「美意識」とは何だろうか。
同性愛者に対する当時の世間の扱いは現在とは大きく異なっていた。たとえば女性誌においては1974年を境に、交際相手などの身近な男性が「ホモ」であるかを鑑別することで自身や家庭を守ることを促す記事が横行していた(石田, 2014)。加えて、発見当初はGRID(ゲイ関連免疫不全)とすら呼ばれていた感染症AIDSを取り巻く偏見もあっただろう。石田(2014)によると、日本での「エイズ・パニック」は、1982~1983年に病名が付されたときに一度、1985年に日本で初めてエイズ患者が認定されたときに一度起きている。このように、同性愛は脅威と見なされており、交際相手の女性が受け入れてくれることをIが期待できなかったも、アリスがKに哀れみを感じるのも、理解できる。
この告白は視点人物アリスを大きく動揺させ、新書版においてアリスは下記のように、Iの語った動機を忘れることを決意する。
彼がJを殺した本当の理由については、話さなかった。そして、そのことばかりは彼女[K]も察してはいないに違いない。──私は忘れるように努めよう。
『46番目の密室』
しかしこのシーンは、後に出た文庫版において次のように変更されている。
彼がJを殺した本当の理由については、話さなかった。そして、そのことばかりは彼女[K]も察してはいないに違いない。
「彼は、Kさんを信じてすべてを打ち明けるべきだった」不意に、火村は石のように硬い口調で言った。
「彼女を信じられなかったことを、今、深く悔いているに違いない」『新装版 46番目の密室』
Jが世間一般に対してのアウティングを示唆していなかったことから、IがKにさえ事実を打ち明けられたなら、Jを殺す動機は無くなる。この改変により、火村がIとJの関係を「公表することを忌避してしかるべき関係」ではなく、「状況に鑑み、信じる人には打ち明けるべきだった関係」であると結論づけていることや、殺人の動機としては正当性を欠いていると考えていることが明らかになる。これは、殺人という行為を憎む火村のキャラクター描写としても妥当であるし、IとJの関係の取り回しとしても現代の感情に近いものだろう。
本作は1992年制作(舞台は1991年)ということもあり、同性愛関係が登場人物たちによって強くタブー視されている。この次に同性愛的な関係が示唆されるのは、おおよそ8年後の「異形の客」となるのだが、そこでの扱いはかなりライトなものになっている。
被害者との関係は
被害者と各容疑者との関係の聞き込みは、シリーズを通して欠かせないシーンだ。その中で、とくに同性愛関係について想定・言及する場面が2つある。
短編集『暗い宿』(2001)収録の短編「異形の客」(2000)において、被害者との関係を尋ねられた容疑者Lが、次のように答える。
「しかし、すき焼きの材料まで買い揃えてあげるとは、まるで恋人に尽くすみたいですね」
Mの言葉に、Lはわざとらしい吐息をついた。
「ゲイのカップルだとでも? 素晴らしい想像力ですが、それは見当違いです。自慢じゃないけれど、僕は自他ともに認める女たらしなんです。(中略)そういう男なので、実はとても忙しいんです。その貴重な時間を割いてNのサポートをしてやっていたんです。こんな友情に篤い男は、なかなかいませんよ」異形の客. 『暗い宿』
まず注目するべきは「ゲイのカップル」という言葉だろう。動機ともトリックとも関係ない、身辺調査という形で同性愛が仮説に上がるのは、これが初めてとなる。同性愛関係がショックバリューではなく可能性のひとつとして語られるという意味で、前述したどのシーンよりも現代的なシーンとなっている。
次に気にとまるのは、「女たらしだから、ゲイではない」という、性的志向を「同性愛」と「異性愛」のみに二極化して捉え、自らの異性愛性を強調することで同性愛者としての疑いを逃れる理屈だ。これは、約17年後の2017年に発表された長編『狩人の悪夢』と次の1節と対照的なものとなっている。
『狩人の悪夢』(2017)には、火村が、容疑者Oと亡くなったアシスタントPの関係を、Dの担当編集者Qに訊ねる場面がある。
(前略)OさんとPさんの結びつきは、仕事上のボスとアシスタントの域を出なかったんですね?」
(中略)
「その質問はどういう意味ですか? 私[Q]が早とちりしていたら赤面の至りですが、ここはずばっと伺います。もしかしたら先生[O]が若いPさんに恋愛に似た感情を寄せていた可能性についてお訊きになっているんでしょうか?」
「あなたは早とちりをしていません。ええ、私が尋ねたのはそういうことです。三角関係だの四角関係だのは、とかく事件の原因になるから確かめたいだけで、他意はまったくありません」
「あくまでもフィールドワークの一環ですね。まず、声を低くしてお答えしますけれど、先生は平均的な男性以上に女性好きです。(中略)
「女性も男性も好きになる人もいますけれどね」
「火村先生の調査は念入りですね。主観と客観の二面から、その億測を否定させてください。まず主観から。私、学生時代から男性好きの男性は直感的にすぐ判るんです。そのセンサーの針は、先生に対してはぴくりとも動きません」
「客観的な根拠は?」
「先生がPさんに惚れていたのだとしたら、東京に滞在する時も彼を同行させそうなものです。なのにそんなことはなさらず、いつも独りで上京して、仕事や用事が片づいてからも羽を伸ばしていた、と聞きます。私以外の編集者に訊けばお確かめいただけます。いかがですか?」
「とても説得力があります。Qさんのおかげで誤ったルートが一つ消せました。ありがとうございます」『狩人の悪夢』
火村は、「異形の客」で行ったのと同じく、同性の関係者同士に恋愛関係がなかったかを訊ねている。それに対するQのファーストレスポンスも「異形の客」と同じく、「女好きの人間なので、対象の人物とは同性愛関係ではない」というものだ。
容疑者と刑事が話していた「異形の客」とは状況が異なるが、ここで火村は両性愛者の存在を考慮に入れ、「女性も男性も好きになる人もいますけれどね」と応じる。これに応じるQの言葉も、経験に基づく直感だけでなく、客観的な事実からの推測を重ねている。
このように、この2つの作品からは、同性愛に係る世相が約17年で大きく変わったことが読み取れる。飛んでしまった時代を巻き戻して、「異形の客」後に同性愛に言及された作品である、『乱鴉の島』から改めて描写を追っていく。
急速に変化する世界
長編『乱鴉の島』(2006)には、アリスが島で偶然知り合った女性2人組について、「レズビアンのカップルなのでは」と他者から提言され、物思いに耽るシーンがある。
セクシーか。それがある程度まで本心ならば、安恵は男性の性的魅力を感受していることになる。Rの観測に反して。
──若い女性のコンビがいましたね。XさんとTさんというんですか。少し見ただけですが、べとべとした感じだった。あれは多分、レズビアンのカップルでしょう。不妊治療としてのクローニングは、同性愛者にとっての福音でもあるんです。その技術を使うことによって、初めて自分たちの子供を作ることができるわけですから。同性同士の結婚が認められている国は、いくつかあります。そういう国でも、同性夫婦は養子を取るか、レズビアンの場合は不本意ながら男性ドナーに精子を提供してもらわなくては、現状では子供を持てない。その難題が解決するんですよ。
同性愛者がクローン技術に希望を託しているとは、これまた初耳だった。世の中は、私が思っているよりも急速に変化しつつあるらしい。
クローン技術で子供を儲けようとするレズビアン・カップルについて想像を巡らせた時、眩暈のするようなケースが浮かんだ。どうしても出産段階で女性の子宮を借りなくてはならない男性カップルと異なり、女性カップルならば自らの腹を痛めて赤ん坊を産むことができる。しかも、愛するパートナーの分身をお互いに産み合うことすら可能なのだ。
私は、目の前の二人に対して、つい盗み見るような視線を投げていた。彼女らは、本当にクローン人間の出産を望んでいるのだろうか? そんな大きな秘密を胸に畳み込んで、私や火村としゃべっているのか? どうにもピンとこない。『乱鴉の島』
一番に目を引くのは、「同性同士の結婚が認められている国は、いくつかあります。」という台詞だろう。2006年において同性婚ができる国は限られており、同性婚というコンセプト自体も人によっては目新しいものだった。たとえば、2001年にオランダで、2003年にベルギーで、2004年にアメリカ合衆国マサチューセッツ州やカナダのいくつかの州で同性婚が認められたばかりだった(アメリカ合衆国は2015年に全州で、カナダは2005年に全州で認可)。続けて語られる、同性愛者が養子を取ったり、ドナーから精子の提供を受けたりという話も、今となっては(少なくとも諸外国では)良く知られた家族の形態だが、当時は目新しいものだったに違いない。
続けて語られるクローン人間の出産については(向井亜紀事件などで代理母問題が話題になっていた頃合いでもあるものの)コミカルな邪推となっているが、「世の中は、私が思っているよりも急速に変化しつつあるらしい」というセリフからは、これから家族の形が急速に変わっていくのだという2000年代の空気を感じられる。
女性間の同性愛感情について語られる作品は他にもあり、迂遠なものでは「残酷な揺り籠」と『鍵の掛かった男』、直截的なものでは『捜査線上の夕映え』となる。前者から確認していく。
キャラクターに深みを
中編集『妃は船を沈める』(2008)に収録されている短編「残酷な揺り籠」(2007~2008)には、若い男性たちの生活を補助しながら生活している女性関係者Uが、女性刑事Vに対して次のようにコメントする場面がある。
Uは、わずかに反り身になって刑事[V]を見た。
絵画を鑑賞するかのように。
「私は、多情な男好きではなく、女が嫌いだったんです。自分がいかにも女臭いからかしら。男の子たちの『それがいいんですよ。そうでいてください』という眼差しを受け止めた時だけ、自分を解放できた。でも、刑事さんのように素敵な女性と女の園を作れたら、それも楽しかったかもしれませんね」
Uは、虚空へとまなざしを馳せる。青年たちに囲まれ、彼らがおしゃべりに興じたり、おどけて笑ったり、酔って歌ったりしてさざめく光景を懐かしく思い出しているのか、あったかもしれない女の園を空想しているのか、いずれだろう?残酷な揺り籠. 『妃は船を沈める』
また、『鍵の掛かった男』(2015)には、依頼人Wが思い出話として、30代のときに参加したクルーズでの出来事を語る場面がある。
そのツアーで一緒になったアメリカ人の女性と何かのきっかけで親しくなって、三日目ぐらいからよく話すようになりました。ピクチャー・リストラー。絵画の修復士で、向こうが一つ年上。懐かれたというより……彼女は私に特別な好意を持ってくれたようです。こちらからは決して応えられない類の情熱的な好意を。それを察してやんわり拒むと、彼女から伝わってくる気配が変化し、私たちは船を降りるまでの通りすがりの友人になりました。(中略)連絡先を教え合ったりはせず、下船するなり手を振りながら右と左に分かれました
『鍵の掛かった男』
これらのエピソードは、犯行動機でもなければ、物語におけるいかなるギミックでもない。空想における「女の園」や、実現されなかった恋愛的な関係が、人物および物語に深みを与えるために描写されている。前述の『狩人の悪夢』にあったようなフラットな取り調べ描写は、これらの描写を経たのちにされたものだ。
認められた恋心
長編『捜査線上の夕映え』(2022)では、担当の女性刑事Vが、中学時代の同級生Xが犯人だと推測しながらも、関係者に情報を秘匿しながら出頭を待っていた旨を供述する。それに対して火村は、X側もVに手錠をかけられるのを待っていたのだと推論する。
それを聞いてなお、Vが手錠を掛ける役を辞したところ、視点人物が次のようにXの情報を開示する。現在進行と過去回想の2つに分けて書かれたシーンのため、どちらも引用する。
「手錠を掛ける役は、やっぱりYさんが適任です。捜査を正しい方向に導いたんですから」
黙って聞いていたが、我慢できなくなって私は言った。
「Vさん、まだ判っていないんですか?」
「何を?」
だいぶ時間が経っている。今にもZ警部が戻ってきそうだ。
話せ、と火村の目が促した。
「中学三年のXが好きだったのは、Vさんです」あの事件の捜査の中にあって、彼女[V]が最も驚いた瞬間だったかもしれない。嘘、という形に唇が動いて、視線が宙に泳いだ。
(中略)
──a君でもbさんでもない。Xさんがほんまに好きやったんは、Vさんやと思います。
cの証言を鵜呑みにするつもりはないが、もしそうだとすると、火村が考える事件の構図にぴたりと嵌まる。辻褄が合えば正解というわけではないにしても、この符合は私の胸を揺さぶり、真実を感じさせた。
だから、XはVに手錠を掛けられる時を待っていたのだ。私たちはなんて特別な結ばれ方をしたのだろう、と愉悦するために。『捜査線上の夕映え』
ここに語られる同性愛描写は、はじめて無害性と重要性を両立させている。明かされる恋心はあくまでも幼い頃ものであり、犯行とは一切関係がなく、捜査を妨害・攪乱するものでもない。しかしながら、想いを寄せられているVはゲストキャラクターではなくバイプレイヤーであり、さらにVとXとの関係は物語全体を通しての謎であるため、Xの恋心は物語の中核に位置付けられている。
また、今までの記述と大きく異なるのは、視点人物アリスが積極的にXの想いを伝えていることだろう。犯行そのものとは関わらず、さらには中学時代のものであるとはいえ、視点人物は女性から女性への恋心を伝えるのに強くは気負わない。Vに幼いころ想いを寄せていたXの心を汲んで、その望みを叶えてあげたいと慮ったからこそ、内内に動機を明かしたのだ。逆に言えば、その程度の動機があれば明かしていいと判断したということになる。
30年前の『46番目の密室』の「墓石も建てずに埋められた真実」とは対照的に、Xの恋心は共有され、昇華されることで幕を閉じる。
4.最後に
・今回、シリーズを通じて描写を追うことで、作中世界における性的マイノリティの受容が、現実世界と呼応しながら進んでいく様子が読み取れた。ジャンル上、読者や視点人物の 「予想(常識)を裏切る」ことが期待されるからか、読者のもつ常識とかけ離れていない、時代に即した内容を書くことが重要なのかもしれない。
・自分が覚えていた箇所は上記のみですが、他に該当する描写があるようでしたら教えてください。
参考文献
毎回雑でごめんなさい。
1
・中塚幹也 (2024). 特例法とトランスジェンダー医療. 『トランスジェンダーと性別変更 これまでとこれから』. edited by 高井ゆと里. 岩波書店.
・野宮亜紀 (2024). 特例法の制定過程から考える、その意義と限界. 『トランスジェンダーと性別変更 これまでとこれから』. edited by 高井ゆと里. 岩波書店.
・Faye, S. (2022). 『トランスジェンダー問題 議論は正義のために』. translated by 高井ゆと里. annotated by 清水晶子. 明石書店.
・釜野さおり,石田仁, 風間孝,平森大規,吉仲崇,河口和也. (2020). 性的マイノリティについての意識:2019年 (第2回) 全国調査報告会配布資料. edited by 「性的マイノリティについての意識:2019年 (第2回) 全国調査」 調査班.
・Feder, S (Director). (2020). Disclosure. Netflix.
・森山至貴. (2017). 『LGBTを読みとく: クィア・スタディーズ入門』. 筑摩書房.
・釜野さおり,石田仁, 風間孝,吉仲崇,河口和也. (2016). 性的マイノリティについての意識―2015年全国調査報告書. edited by 「日本におけるクィア・スタディーズの構築」研究グループ.
・石田仁 (2014). 戦後日本における「ホモ人口」の成立と「ホモ」の脅威化. セクシュアリティの戦後史. 京都大学出版.
・Maree, C. (2013). 「おネエことば」論. 青土社.
2 (引用元などのバージョン)
・有栖川有栖. 彼女か彼か. 『ブラジル蝶の謎』(文庫: 1999年5月15日第1刷). 講談社.
・有栖川有栖. 海より深い川. 『砂男』(文庫: 2025年1月10日第1刷). 文藝春秋.
・有栖川有栖. 海より深い川. 『小説NON』2004年5月号. 祥伝社.
・有栖川有栖. 『ダリの繭』(文庫: 2018年9月15日第39版). KADOKAWA.
・有栖川有栖. 『新装版 46番目の密室』(文庫: 2018年4月2日第13刷). 講談社.
・有栖川有栖. 『46番目の密室』(新書: 1992年3月5日第1刷). 講談社.
・有栖川有栖. 異形の客. 『暗い宿』(文庫: 2019年2月5日第24版). KADOKAWA.
・有栖川有栖. 『乱鴉の島』(文庫: 2010年2月1日刷). 新潮社.
・有栖川有栖. 残酷な揺り籠. 『妃は船を沈める』 (新書: 2010年9月25日初版第1刷). 光文社.
・有栖川有栖. 『鍵の掛かった男』 (単行本: 2015年10月10日第1刷). 幻冬舎.
・有栖川有栖. 『狩人の悪夢』 (単行本: 2017年1月28日初版). KADOKAWA.
・有栖川有栖. 『捜査線上の夕映え』 (単行本: 2022年1月10日第1刷). 文藝春秋.
・有栖川有栖. 『闇の喇叭』 (文庫: 2014年7月15日第1刷). 講談社.