「ベクデル・テストにおけるレズビアンのコンテクスト」覚書

Gender-and-SexualityLiterature

もともと、ただの80年代のレズビアン・フェミニストのジョークだったんだ。私たちがみんな言い合っていたような。で、そのまま消えていった。でも20年後に若いフェミニストたちが復活させたんだよ。きっかけは「ハリウッドに映画を売りたいなら、女性を2人以上出してはいけない」とか言われていたような映画学校の女性だと思うな。それが独自に、奇妙な歩みをはじめたんだ。

It was just a lesbian feminist joke of the ’80s, the kind of stuff we were all saying to each other. And it, you know, it just disappeared. But then, 20 years later, these young feminists resurrected it. I think it started with women in film school who were being told the exact opposite. “If you want to sell a movie to Hollywood, don’t put more than two women in it.” Etc. So, it’s just taken on this weird life of its own. [1]

べクデル=ウォレス・テストとは?

べクデル=ウォレス・テストは、漫画家アリソン・ベクデルの「Dykes to Watch Out For」収録の漫画パネル 「The Rule」に由来するテストだ。この漫画は作者のブログにも掲載されている[2]。

広くは「べクデル・テスト」と呼ばれる。作者アリソン・ベクデルは友人リズ・ウォレスから当テストを教わったとしており、このテストが「ベクデル=ウォレス・テスト」と呼ばれることを希望している[3]ため、この記事では「べクデル=ウォレス・テスト」と呼ぶ)。また、漫画の主人公の名前「モー」から「mo movie measure」などと呼ばれることもあるが、このパネルにはモーは出演していない。
 
「The Rule」あらすじ

女性2人が映画館の前で話をしている。映画を観たいか尋ねられた女性は、「特定の基準を満たさない映画は観ない」と述べる。彼女は、その基準は「2人以上の女性が出てきて、男性以外のものごとについてお互いに話す」というものであることと、「一番最近で観た映画はエイリアンなんだ。二人の女性がモンスターについて話すから」ということを話す。そして2人はそのまま映画を観ず、主人公の家に向かうこととする。

 

べクデル=ウォレス・テスト

映画が下記の要件をすべて満たすと、テスト合格となる。
① 2人以上の女性が出てくる。
② 女性同士で話す。
③ ②の話は、男性以外についてである。

 

男性中心の物語を批判する上記のあらすじはフェミニスト的であり、ここから派生する形で有名になった「べクデル=ウォレス・テスト」もまた、ジェンダーバイアスの指標として活躍している。

抜け落ちたクィアな要素

上記のあらすじは、この1パネルのみから読み取れる内容に限ったため、漫画の重要な要素が抜け落ちている。『Dykes to Watch Out For』というタイトルから容易に推測できるように、漫画に出てくる2人は女友達ではない――「The Rule」に描かれているのは、デート相手を映画に誘う場面だ。この漫画で描かれているのは、「レズビアン2人がデートムービーを選ぶ際に、女性同士で男性以外の話をする映画が無いことに気づく」という侘しさを描いたシーンとなる。もちろん、「女性キャラクター同士がお互いをまなざし、男性中心でない関係を結んでいる」ことはクィアなコンテクスト抜きでも重要だ。しかし、このコンテクストは、ベクデル=ウォレス・テストについて語る多くの文章において無視されすぎているように思われる。

なお、女性キャラクターを主人公とした一人芝居や、重要で複雑な女性キャラクターがたまたま他の女性と話さない物語などは、どのようなフェミニスト的メッセージを伴っていたとしてもべクデル=ウォレス・テストに落ちることから、「マコ・モリ・テスト」のように女性キャラクターを複数必要としない指標が考案された。このことから、ベクデル=ウォレス・テストを欠陥品のように扱う人もいる。しかし、本テストをレズビアン・フェミニスト漫画のコンテクストに戻し、デートムービー選定の場で発された言葉であることを考慮すると、「2人の女性キャラクターが登場して話す」という条件の重要性がわかるだろう。レズビアンの性的志向は「女性だけを構成要員とした人間関係」の存在を拠り所としており、物語において常に女性が男性のサポート要員として描かれることは、容易にレズビアンを疎外するのだ。

女性同士のまなざし

ちなみに、ベクデルはテストのアイデア全体が、バージニア・ウルフの1929年のエッセイ『自分だけの部屋』に由来することを述べている[4]。ここかな、と思われた箇所を抜き出して拙訳したものを次に載せる。

『自分だけの部屋』ヴァージニア・ウルフ 一部拙訳

突然話を止めてごめんなさい。ここには男性はいませんね? あの赤いカーテンの向こうに、シャートル・ビルーン卿が隠れていないと約束していただけますか? ここにいるのは皆女性だとお約束いただけます? では、そのとき私が読んだ言葉を申し上げます――「クロエはオリビアが好きだった」。驚かないでください。どうか赤面しないで。女性だけの会ですから、ときどきこういったことが起こることを、こっそりと認めましょう。ときに、女性が女性を好きになることもあるのです。
「クロエはオリビアが好きだった」と書かれているのを読んだとき、大きな変化に気付きました。文学上おそらく初めて、クロエがオリビアを好きなのです。クレオパトラは、オクタヴィアを好きではありませんでした。もしクレオパトラがオクタヴィアを好いていたら、『アントニーとクレオパトラ』はどれほど変わっていたことでしょう! 私は『Life’s Adventure』から意識を離して、すべてが馬鹿げたほどに簡略化され型にはめられていることに思いをはせました。クレオパトラがオクタヴィアに抱いている感情は嫉妬だけです。「私より背は高い?」、「髪をどうやって結っているの?」。おそらく『アントニーとクレオパトラ』は、これ以上の感情を必要としなかったのでしょう。しかし、もし二人の女性の関係がもっと複雑だったら、どれほど興味深かったでしょうか。私は、すばらしい女性キャラクターの面々を次々に思い出しながら、あらゆる女性同士の関係があまりにも単純だと考えました。多くのことが、試みられず、取り上げられていないのです。私は、二人の女性が友人として描かれている例を、読んだことのあるものから思い出そうとしました。『Diana of the Crossways』にはそのような試みがあります。ジャン・ラシーヌ作品やギリシャ悲劇には親友関係の女性がいます。ときどきは母娘関係のこともあります。しかし、ほとんど例外なく、彼女たちは男性との関係を通じて描かれています。ジェーン・オースティンの時代以前の偉大な女性キャラクターたちは皆、男性によってまなざされてきただけでなく、男性との関係においてしかまなざされていないとは、奇妙に思われます。そうしてまなざされているのは、女性の人生におけるわずかな部分にすぎません。さらには、男性はそのわずかな部分を、性別というものが身につけさせた黒色もしくはバラ色の色眼鏡を通して見るため、そのほんの少ししか理解できないのです。

I am sorry to break off so abruptly. Are there no men present? Do you promise me that behind that red curtain over there the figure of Sir Chartres Biron is not concealed? We are all women you assure me? Then I may tell you that the very next words I read were these–“Chloe liked Olivia…” Do not start. Do not blush. Let us admit in the privacy of our own society that these things sometimes happen. Sometimes women do like women.
‘Chloe liked Olivia,’ I read. And then it struck me how immense a change was there. Chloe liked Olivia perhaps for the first time in literature. Cleopatra did not like Octavia. And how completely Antony and Cleopatra would have been altered had she done so! As it is, I thought, letting my mind, I am afraid, wander a little from Life’s Adventure, the whole thing is simplified, conventionalized, if one dared say it, absurdly. Cleopatra’s only feeling about Octavia is one of jealousy. Is she taller than I am? How does she do her hair? The play, perhaps, required no more. But how interesting it would have been if the relationship between the two women had been more complicated. All these relationships between women, I thought, rapidly recalling the splendid gallery of fictitious women, are too simple. So much has been left out, unattempted. And I tried to remember any case in the course of my reading where two women are represented as friends. There is an attempt at it in Diana of the Crossways. They are confidantes, of course, in Racine and the Greek tragedies. They are now and then mothers and daughters. But almost without exception they are shown in their relation to men. It was strange to think that all the great women of fiction were, until Jane Austen’s day, not only seen by the other sex, but seen only in relation to the other sex. And how small a part of a woman’s life is that; and how little can a man know even of that when he observes it through the black or rosy spectacles which sex puts upon his nose. [5]

以上、

参考文献

  1. https://www.vox.com/2017/2/13/14598618/full-transcript-alison-bechdel-recode-decode-fun-home 
  2. Dykes to Watch Out For » Blog Archive » The Rule 
  3. https://www.independent.co.uk/arts-entertainment/films/news/please-stop-calling-it-the-bechdel-test-says-alison-bechdel-10474730.html
  4. How the Standard for Gender Equality in Culture Became Known as the ‘Bechdel Test’ – The Atlantic
  5. https://gutenberg.net.au/ebooks02/0200791h.html
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