ノーマン・ロックウェル自伝 J.C.ライエンデッカーに関する記述を検証

J-C-Leyendecker

「この世界が理想郷ではないとしても、この世界は理想郷であるべきなのだと、私は自覚しないままに思い込み、そして理想的な要素のみを絵に描いたのだ」

I unconsciously decided that, even if it wasn’t an ideal world, it should be so and painted only the ideal aspects of it

NYTimes記事『Norman Rockwell, Artist of Americana, Dead at 84』ロックウェルの言葉

JCL研究におけるロックウェル自伝

アメリカを代表する画家であるノーマン・ロックウェルは、先輩である商業イラストレーターのJ.C.ライエンデッカー(以下JCL)に憧れていた。

ロックウェルは「自分にとってJCLは神であった」とまで言い、道でJCLを見かけて家までこっそり付けていったこともあった(Allen, 1981)。JCLの姿を見るためだけに駅で待ち構えていたこともある(Schau, 1974)。また、道で後ろを付けたのは複数回であり、JCLの屋敷の中を覗いたこともある(Rockwell, 1960)。

その憧れを象徴するかのように、ロックウェルの自伝『My Life as an Illustrator』の第9章(全20章中の1章)はJCLの住んでいたマウントトムロードの屋敷をメインとして書かれている。

JCLに関する資料は多くないため、多くの研究者が『My Life as an Illustrator』を貴重な一次ソースとして著書に活用している。Meyerは「書類での資料は『My Life as an Illustrator』(1960)及び『J.C.Leyendecker』(1974)しかない」とまで書いている。

ロックウェル自伝『My Life as an Illustrator』の描写はどれも明瞭で、特に視覚的な記憶に優れているのか人の容姿を詳細まで記載している。例えばJCLと弟のFXLがディナーに現れる姿は「彼らは背が低く、軍隊のような正確さで、彼らの杖と白黒のサドルシューズは石畳を同時に打っていた。彼らは白いフランネルシャツと、真鍮のボタンがついたダブルブレザーと、きっちりとしたカンカン帽をかぶっていた。~(中略)~彼らがとてもハンサムなのが見受けられた。暗めの肌に高い頬骨と、鼻筋の通った繊細な作りの鼻をしていた。まるでスペイン人みたいだった。そして引き締まって体格がよく、ジャケットのラインが肩から腰までスッと落ちていた」とまで記載している。

しかしロックウェル自伝は息子トム・ロックウェルに語る形で1959年に書き上げたものであり(出版は翌年1960)、JCLの死後8年が経っている。そのせいもあってか、ロックウェルのJCLについての記載には信憑性に欠けるところも些少ながらある。

 この記事では『My Life as an Illustrator』9章に書かれたエピソードの一部を記述すると共に、それに注釈をつける形をとる。

ロックウェル自伝の内容

※ 目次タイトルは記事の可読性を考慮し便宜上付けたものである。ページ番号はペーパーバック版『My Life as an Illustrator』に対応するものである。また『My Life as an Illustrator』の要約は太字で、注釈はオレンジ色で記す。(表示環境によってはどちらも黒字)

パーティー(ページ:159~161)

・1920年のある日、Gimbelsのスタッフとのやりとり。

・上記から程なく、ロックウェルはパーティーのスピーカーとして『The New Rochelle Art Association』から招待される。JCL含む名だたる画家と並び着席していたロックウェルだが、プレゼンターであるチャールズ・ダナ・ギブソンに紹介を抜かされてしまう。

ディナー(ページ:161、165~166)

・ロックウェルは電話でJCLをディナーに誘う。

・JCLと弟のフランク・ライエンデッカー(以下FXL)がロックウェルの家に来訪。ロックウェルと妻のアイリーンは料理人を雇い七面鳥を用意して出迎える。

パーティーから日が立っておらず、1920~21年の可能性が高い。七面鳥はライエンデッカーのお気に入りのモチーフであり、庭に飼っていたほどだった(Cutler, 1974)。これ以上ない料理だったのではないだろうか。

JCLについて(ページ:166~167)

・JCLの来歴が語られている。

・JCLの「稼ぐよりも多く使え、そうすれば働かなければならなくなるから」というモットーと、そのために金払いは悪いが評価につながる仕事を受けられなかったのではないかという推察。

・JCLは締め切りがないと描き上げるのにひどく時間がかかる点について例を出して指摘。

JCLの来歴は『The Saturday Evening Post』(15 October 1938)にてJCL本人が語った内容と一致する。

ビーチについて(ページ:167)

・ビーチ(ファーストネームを知らない)はカナダ人で、背が高く体格が良く、とてもハンサムだった。ビーチはJCLが描いた絵の女性に恋をしてカナダからやってきたらしい。

JCLと出会う一年前(1902)にはビーチはイギリスに居た(Cutler, 2008)。また、最初はJCLではなくFXLに雇われている(Cutler 2008)。なので「美人画に恋をしてカナダから来た」は、チャールズ・ビーチの作り話の可能性がある。

ビーチとJCL(ページ:167~168)

・JCLはビーチをモデルとして使うようになり、しばらくしてビーチはマウントトムロードの屋敷に住まうようになった。ビーチは日常の雑務から初めて、やがてアシスタントとして多大な役割を果たすようになり、ロックウェルが出会う頃にはJCLは画業でビーチに頼りきりになっていた。

・JCLは今は隠居生活をしているが、ロックウェルに会う前はパーティなども開き普通の人間だったらしい。しかし、ビーチと出会ってから彼はほとんど誰とも会わなくなってしまった。25年間知っているが、モデル以外にJCLと会う人はJCLの姉のオーガスタ・メアリ・ライエンデッカー(以下AML)、弟のFXL、そしてロックウェルくらいのものだった。電話も主にビーチが出た。

JCLは元々内気な人間だった(Schau, 1974、Meyer, 1978)。かといってロックウェルが想像しているような隠居生活をしていたわけではなく、たまに旅行に出かけたりもしていた(Schau, 1974、Meyer, 1978)。また、パーティーを開いていたのはビーチと出会った後である(Cutler, 2008)。よって「ビーチと出会ってから引きこもるようになった」という記述の正確性は不明だ。

また、JCLは家族とロックウェル以外にも会っていた。コールズ・フィリップスとは、1927年の葬式でスピーチをし、死後に家族をしばらく邸宅で住まわせるなど、良好な友人関係を築いていたように見受けられる(Schau, 1974)。

JCLがロックウェルに初めて出会ったのは1920年(Rockwell, 1960)だが、1920年はJCLがパーティーを頻繁に開いていた時分である(Cutler, 2008)。つまり、ロックウェルがJCLの人となりを語れるほど親しくなったのは1920よりもしばらく経ってからと推測される。同書166ページに「25年間友人だった」と書かれており、これをJCL死亡年1951年から引くと、1926年ごろから本格的に親しくなったのかもしれない。

Cutlerは、ロックウェルがJCLと親しくなったのは1920年代後半と記載している。

JCLの思い出(ページ:168)

・ロックウェルがJCLの名前で一番に思い出すのは、庭を彷徨う姿ではなく、ロックウェルの絵を批判する姿。JCLは絵を描き直すことをなんとも思っておらず、すぐに描き直すように言ってくる。

JCLは何度も描き直すことで絵の完成度を上げるタイプだった(Schau, 1974)。

怯えるJCL(ページ:168)

・ビーチと一緒に暮らし始めてからというもの、JCLはおどおどするようになった。例えばロックウェルと一緒に道を歩いている時、知人に話しかけられたJCLが早く離れたそうにしていた。

ビーチへの批判(ページ:169)

・ビーチはJCLが完成させる絵の報酬の決まった割合を自分の給与としていた。また、ビーチは自分とJCLを合わせて「私たち」を主語に使っていた。

・ビーチは寄生虫だった、JCLの背中にしがみつく、巨大で白くて冷たい虫だった。愚かで、少しでも賢そうなことを言っているのを見たことがない。

・ビーチは、JCLとロックウェルを2人きりにすることがなかった。また、JCLが外に行こうかなどと言うと「そうするべきかな?」と言って考えを改めさせていた。

同書220ページでロックウェルは「プロのモデルのほとんどは他の道で食べて行くことのできない人々であり、不成功者であった」と語っている。ビーチは多くの人に嫌われていたが、JCLの親類の複数名を含む数名はビーチを「感じが良く、丁寧で、JCLにとっていい影響だ」と覚えている(Schau, 1974)。

ビーチの来訪(ページ:169)

・ビーチがロックウェルのアトリエを訪ね、JCLの行方を尋ねた。JCLは他のモデルと旅行にでかけたらしい。「そういえばカナダに行くと言っていたような」とロックウェルが伝えるとビーチはアトリエを飛び出し、運転手と共にカナダに向かった。

JCLがカナダ旅行に出かけたことを、ロックウェルも知っていたことが、上記から読み取れる。これは、170ページの「JCLは出かけなくなった」が文字通りの意味でないこと(168ページの近隣の散歩どころか、国外旅行までもノーカウントとされていること)を示唆している。

FXLが屋敷を出た経緯(ページ:170~171)

・JCLが外に出かけず人と会わなくなると、FXLもそうするようになった。屋敷にはモデルと郵便配達人と使い走りの少年が訪ねてくる以外は、JCL、FXL、AMLだけしかいなくなった。

・日曜日の午後、マウントトムロードの屋敷にてJCL、FXL、AMLの3きょうだいとロックウェルが暖炉でくつろいでいたところ、FXLがビーチに「暖炉の薪を取って」と指示、ビーチが「ご自分でなされば」と返答する。

・ビーチはFXLの分の屋敷の維持費の支払いを肩代わりすることで、徐々にFXLよりも優位に立つようになった。

・AMLとビーチの間でいさかいが起こり、AMLがビーチに唾を吐いたところ、JCLがビーチを庇い、AMLとFXLは家を出ることとなる。

先ほども記述した通り、「JCLが外に出なくなった」「人と会わなくなった」というのは文字通りではなく、社交性が減退したという意味だろう。上記以外の例をあげると、ニール・ハミルトンとその妻がJCLと会食したのは1920年代半ばのことである(Cutler, 2008)。ロックウェルはJCLの交友関係全てを把握していたわけではないということだ。

FXLが亡くなるまでの経緯(ページ:171~172)

FXLはしばらく独居していたが、ロックウェルが自分のスタジオの隣にFXLのためのスタジオを見つけてやると、そこに引っ越してきた。FXLはあまり仕事をせず、スタジオで寝起きしており、ドラッグを飲むなどして精神的に不安定だった。

ある日、FXLはロックウェルに「兄弟の秘密である油(油絵具用)の調合」を伝える。

ロックウェルはFXLが精神科医に向かうのに付き添う。精神科医にビーチがJCLを支配していることを説明するロックウェルだが、医者は「バカな人間が相手を支配してしまうことはよくある」と説明する。

・やがて、FXLは亡くなった。

FXLが亡くなったのは1924年(Cutler 2008)。

JCLと写真(ページ:172~173)

JCLは絵を描くときに写真を使わず、モデルを使ったスケッチを組み合わせて完成の絵を作る。しかし象牙の塔で人と会わなくなったJCLの絵は空虚になっていった。JCLはついぞ魅力的な女性がかけなかった。

ロックウェルは制作時に写真を使う。あるときロックウェルが参考写真を床に広げていると、JCLが訪ねてきた。JCLは礼儀正しく、床の写真には言及しなかった。

Schauはロックウェルの「JCLは魅力的な女性を描けない」主張に対し、「JCLは魅力的な女性を多数描いた。JCLのセクシャリティに対する当てこすりにも思える」と主張している。ロックウェル自身もクライド・フォーサイスに「魅力的な女性は絶対に描けない」と指摘されたことがあり(Marling, 2005)、当時の「美人画家」以外へのお決まりのセリフだったのかもしれない。

ロックウェルが去ったのち(ページ:173)

・1939年にロックウェルはニューロシェルを去り、バーモントに住み始めた。

・JCLのいとこがロックウェルにJCLを訪ねてくれないかと依頼してきたことがある。訪ねてみると全てが同じで、JCLは相変わらずすらりとしており、ビーチはハンサムだった。食事を一緒にとり、ロックウェルはバーモントに戻った。それが1939年以降に唯一会った機会であった。

・1942にSEPの編集者が変わるとJCLは表紙に選ばれることがなくなり、他の仕事で屋敷を維持するようになった。

同書166ページに「25年間友人だった」とあるが、実際に会うなどして親密に交際していたのは1939年までなのだろう。手紙などでの交友は続いたのかもしれない(1945年にJCLからロックウェルに送った手紙が現存している)。

JCLの葬式(ページ:173)

・1951年にJCLは亡くなった。葬式には5人だけが出席した、ビーチ、AML、ロックウェル、JCLのいとこサリバン家の娘、そしてその夫。

Cutlerによると、上記に加えてニール・ハミルトン、同業者のオーソン・ローウェルも棺の付き添い人をした。これを全て合わせると(教会関係者は除いて)出席者は7人となる。

ビーチのその後(ページ:174)

・ビーチはJCLが死んだ後、酒浸りになった。ビーチは引き継いだ絵などを、酒を買う金欲しさに二束三文で売ってしまった。そしてビーチもすぐに亡くなった。

ビーチは約30000ドルの遺産(不動産や車を除く)を受け継いでいるため、金欲しさに行った可能性は低い(Cutler 2008)。また、JCLが伏してから1年以内にビーチも死亡しているため、金策に困るには早すぎる気がする。

最後に

自伝というのはパーソナルかつ脚色されたものであり、必ずしも真実のみが記されているとは限らない。記憶違いなどで一部が別資料と異なることは多分にあるが、それが自伝としての価値を損なうことはない。ノーマン・ロックウェルの自伝は、ノーマン・ロックウェルの主観を知るために読むものだからだ。

ノーマン・ロックウェルの自伝は今後も貴重な資料として、JCL研究の糧になり続けることだろう。

気になった方はぜひロックウェル自伝をお読みください。

参考文献

『J.C.Leyendecker』Laurence S. Cutler & Judy Goffman Cutler & The National Museum of American Illustration著, 2008 及び 上記邦訳『アート オブ J.C.ライエンデッカー』2016

『J .C.Leyendecker』Michael Schau著, 1974

『My Life as an Illustrator』Norman Rockwell著, 1960

『The Saturday Evening Post』 15 October 1938, [Keeping Posted]

『The Saturday Evening Post』May-June 1973, [Leyendecker; Sunlight and Stone] David Rowland著

『America’s Great Illustrators』1978 Susan E. Meyer著, 1978

『The Saturday Evening Post』October 1981 [Norman Rockwells Idol] Michael Allen 著

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