J.C.ライエンデッカーの生涯

J-C-Leyendecker

J.C.ライエンデッカーについて、生涯を簡単に紹介します。(今更かもしれませんが……)

子供時代

ジョセフ・クリスチャン・ライエンデッカー(以下ジョセフ)は、1874年にモンテバウア(ドイツ)にて出生します。兄アドルフ、姉オーガスタ、ジョセフ、弟フランクの4人きょうだいの3番目でした。

1882年、ライエンデッカー家の6人はシカゴに移民します。JCLの母エリザベスの叔父が副社長を務めるマカヴォイ醸成工場にて、父ピーターが働くこととなったからです。1889年、JCLは製版屋にて働き始め、さらには本格的に絵を学ぶためにシカゴアートインスティテュートに通う事となります。

才能に溢れた兄弟

1896年にジョセフは『センチュリー』の表紙デザインコンテストに優勝します。

同年7月、ジョセフとフランクは2人で留学しアートジュリアンにて学び始めます。Meyerは、ジョセフは極度の人見知りのため、フランクは対人アシストも兼ねて同行したのではと考えています。ノーマン・ロックウェルが後々アートジュリアンを訪れ自伝に書いたところによると「何年も前のことなのにみんなジョーの話をしていた」とのことで、スター的な学生だったのでしょう。パリにいる間、『インランド・プリンター』などに表紙を採用され、また1897年には展覧会も開き、学業以上の収穫を得られました。

1898年、凱旋帰国した2兄弟はシカゴの実家近くに拠点を構えます。翌1899年には初めて『サタデー・イブニング・ポスト』にて表紙を手がけ、その後ポストの顔となっていきます。1900年、2人はワシントンスクエアに拠点を移しますが、イラストレーションの黄金期がNYを中心に起こったことを考えると、これはまったく正しい判断でした。この際、姉であるメアリも2人についてニューヨークに来ています。

ちなみに長兄であるアドルフはジョセフの人生史にほぼ関りがなく、Cutlerの調査により始めて存在がしっかりと確認できました。Wikipediaでも最近まで記載がなかったほどです。

働き者のチャールズ・ビーチ

1903年に、17歳のチャールズ・ビーチが、フランクにモデルとして雇用されます。その後、チャールズ・ビーチはアトリエの一区画先に引っ越しています。ビーチは魅力的な容貌のカナダ人で、役者志望のモデルでした。

1905年よりジョセフは、有名な広告キャンペーンであるアロウカラ―の広告画を手掛けますが、その初期の絵画モデルはビーチでした。また、ビーチは画業にまつわる事務作業や、営業活動、価格交渉、また絵画制作の手伝いなども行いました。

精力的な人物だったようで、マウントトムロードに邸宅を立てる際は工事監督を行い、その屋敷で豪奢なパーティーを開いています。ロックウェルが自伝で「依存しきっていた」と語るのも頷けるほど、ジョセフの人生にチャールズ・ビーチは無くてはならない人物となっていきます。

新鋭ノーマン・ロックウェル

1920年、ジョセフはノーマン・ロックウェルと初めて出会います。しかし、ロックウェルは前々からジョセフを良く知っていました。

ノーマン・ロックウェルはジョセフに対して、最寄駅での待ち伏せ、JCのモデルへの聞き込み、家ののぞき見、道での尾行などストーキング行為を繰り返しました。そしてロックウェルは、自宅のディナーにジョセフとフランクを誘ったのをきっかけに、ジョセフの友人として家に招かれるようになっていきます。

ロックウェルがジョセフの人生を語る上で欠かせない一番の理由は、ジョセフの生活を詳細に自伝に書き残しているからでもあり、ジョセフの数少ない友人だったからでもあります。

フランクとの別れ

アートジュリアンから戻ってから長年ジョセフと一緒に暮らしていたフランクですが、思うように仕事をこなせず、金銭面や精神面に負担がかかるようになっていきます。屋敷はフランクとジョーで支払いをすることになっていたのですが、払えないときはビーチが肩代わりしていたようです。

1923年、フランクとビーチの間で諍いが発生し、メアリとフランクは家を出ます。メアリは以前からフランクとクライアントの仲介などを行っていました。最後まで末の弟を庇ったのかもしれません。

こうして屋敷にはジョセフとビーチ、そして使用人たちが残りました。

メアリは女性用ホテルに移りますが、フランクはロックウェルが借りているアトリエの隣のアトリエに部屋を借ります。フランクの精神病院につき添うなどしたロックウェルの助力の甲斐もなく、フランクの病状は悪化し、1924年に亡くなります。享年45歳でした。

これを境に、フランクの話題はジョセフの屋敷でタブー視されるようになります。なお、1925年から1931年まで、ジョセフが絵をSEPに寄稿する数が目に見えて減っています。狂乱の1920年代は、ジョセフにとって苦しい形で終わりました。

イラストレーション黄金期の終わり

アメリカのアート業界の中心地だったニューロシェルも、数十年のうちに住む人が入れ替わっていきました。1927年にはジョセフの友人である画家コールズ・フィリプスが亡くなり、ロックウェルも1939年にバーモントに引っ越しました。1945年にジョセフがロックウェルに宛てた手紙では「ニューロシェルの友人がみんな居なくなった」ことへの寂しさが綴られています。

ジョセフは仕事面でも斜陽に入ります。『サタデー・イブニング・ポスト』は1943年にはジョセフとの契約を完全に打ち切り、ノーマン・ロックウェルが新たな雑誌の顔となっていきます。『American Weekly』など雑誌の表紙の仕事をその後も続けたジョセフですが、最盛期に豪遊の資金源となっていたSEP等の収入とは比べ物にならなかったでしょう。

1930年代は広告写真の時代でもありました。LIFE誌が「写真の雑誌」としてリニューアルされたのも1936年です。コッペンハイマー、ケロッグ、コレット&ピーボディなど広告画でも名を馳せていたジョセフですが、広告写真の台頭には打ち勝てず、収入は激減し、使用人の雇用を打ち止めることとなりました。

ジョセフは1951年に心臓病で亡くなり、オーガスタとビーチに財産を半分ずつ残します。これは収入のないオーガスタが晩年を過ごすのに十分な財産でした。ジョセフは家族の墓に収められ、葬式には7人が参加しました。広告画の一時代を築いた画家の、あまりにも静かな最後でした。

ビーチは翌年1952年に亡くなりました。

現代への影響

自画像やインタビューなどセルフプロモーションに長けていたロックウェルや、人脈が非常に広かったOrson Lowellなどと違い、ジョセフの人生は「語り継ぐ者」が極端に少ない状況にありました。チャールズ・ビーチがジョセフの死後、言いつけに従って私文書を処分したのも一因でしょう。オーガスタは絵の一部を美術館に寄付し、財産の残りをJ.C.ライエンデッカーに関する本の制作費として寄付してのち亡くなりますが、この本が出版されることはありませんでした。

しかしながらジョセフの絵は作者の死後も人を惹きつけました。1974年にはSchauが初めてJ.C.ライエンデッカーについて体系だった本を作り、Cutlerが2008年に『The Art of J. C. Leyendecker』を書いたことで新たな光が当たりました。1920年代のポップカルチャーに多大な影響を与えたJCLの絵は、現在でも人気があります。

 近年に入り、J.C.ライエンデッカーとチャールズ・ビーチの50年間の関係性をクィアな文脈で語る文献が増えました。JCLを模範的なクィアアイコンとして語るには危うい面もあると個人的には考えているのですが(16歳少女との偽装結婚未遂や、ビーチが初対面時に17歳であったことを無視すべきではないでしょう)しかしながら1920年代に豪奢な屋敷に暮らしロードスターに乗って執事を従える、煌びやかな暮らしをしていた2人の存在を嬉しく思う人がいるのは事実です。

参考文献

主にCutler、Schau、Meyer、Rockwellの本を参考にしており、齟齬ある点は最新であるCutlerの調査を優先させています。

タイトルとURLをコピーしました