チャールズ・ビーチのインタビュー記事和訳

J-C-LeyendeckerTranslation

アメリカ稀代の広告画家J.C.ライエンデッカーのコレクションを持つHaggin美術館に問合せし、様々な資料の融通をしていただいた中に、ひときわ目を引く文章がありました。J.C.ライエンデッカー死後、生涯のパートナーであったチャールズ・ビーチへ『The Standard-Star』が1951年に行ったインタビュー記事『Still Handsome, He Burns Sketches That Made Him』です。

邦訳をこのWebサイトに掲載して良いか確認したところ、快く承諾いただけたので、拙訳ながら以下に記します。

記事翻訳


『未だハンサムな彼は、彼を作り上げたスケッチを燃やす』Ed Wallece

 北からの光が背の高い窓に差込み、かつて国随一の男性美として目されていた顔を照らした──アローカラーマンだ。
 チャールズ・A・ビーチは煙草を灯し、片足を低いスツールに乗せ、折り曲げた膝の上で腕を重ねた。男が動くにつけ、まだ彼のハンサムな輪郭と手の形を、光が追って照らし出すように見えた。
 肌のきめや皺の影響をあまり受けないように彼を形作ったという意味においては、自然はチャールズ・ビーチに気前が良く、女性たちがアローカラーマンにラブレターを書くのをやめて多くの年月が過ぎたあとでも彼はまだハンサムだった。

ボスは死んだ

 大聖堂のような高さの広いスタジオは、ニューロシェルのマウント・トム・ロード48番地の高台に建つ大邸宅の一室に過ぎない。この家と広大で美しい敷地は、つい最近まで有名なイラストレーターであるJ.C.ライエンデッカーの家であり、アローカラーマンがその人生と時間を満喫してきた場所だった。
「もうそれも終わりました」と彼は言った。「ボスはいなくなり、私は舵のない船のようになってしまった。この家も土地も、底が抜けた大きな船のようです」
 大きなイーゼルには掛け布が被せられ、部屋の隅には油絵が積み重ねられている。もっと小さなイーゼルには、7月25日に77歳で亡くなったライエンデッカー氏による美しいスケッチが描かれたキャンバスが置かれていた。薪で部屋を暖めるために作られた、巨大な薪置きを従えた大きな暖炉の中では、石床の上に置かれた数本の煙草が、細い紫煙を残して燃え尽きていた。

スケッチを燃やすだろう

この巨大な家では今、アローカラーマンだけが、彼自身のこだまと、サタデー・イブニング・ポストのライエンデッカーの表紙を飾った何枚もの絵と、何千枚ものスケッチとともに暮らしている。これらのイラストは毎年、クリスマス、イースター、秋、春などの祝日や季節、そしてアメリカの日常の心温まる側面を捉えてきた。 これらのスケッチは、イラストレーターの意向により間もなく焼却される。そのうちの何百もがアローカラーマンの非常に特徴的な顔立ちをしているが、彼は次の理由で全てを燃やすのだと言う。
「J.C.がある日、私にこう言ったんです。〈チャールズ、あれらは全部破壊してくれ。そこらを漂わせておきたくない〉」
「だから、今は私に任されてるんです」とビーチ氏は言う。「私は49年間ボスと一緒にいました。最初はモデル、次に秘書、そして常に友人として」
 元祖アローカラーマンは、画学生のためにクリーブランドでポーズをとった後、1903年にニューヨークにやってきた。彼の人生最初の仕事は、人生を予期しない道に送り出す、運命的な瞬間の一つであった。
 彼は16歳の時、美術学校の募集広告に答えた。先生は、彼が自身の状況を把握しているだろうと推測し、タオルを渡して、スクリーンの後ろに入って服を脱ぐように言った。

給料は週に7ドル←太字

「何をしたらいいのかわかりませんでした」とビーチ氏は振り返る。
「私がとても遅く服を脱いだので、先生はどうしてか尋ねました。私は仕事の詳細について尋ね、その説明を受けました。私はそこで、これが真っ当な仕事だと知ったのです。当時、彼らは毎週モデルを変えていたのですが、私を気に入って5週間も仕事をくれました。何時間でもポーズを取り続けることができました。彼らからは週給7ドルを受け取りました」
 その仕事の終わりに、この若いモデルは、ニューヨークのコーラスガールたちと出会い、ニューヨークに一緒に来ないかと誘われた。
「ニューヨークに来て、お金持ちと肩を並べよう」と1903年に彼女たちは言った。
 その言葉は彼に影響を与えなかったが、しかし彼はある若い芸術家に出会い、ニューヨークのモデルたちが良い生活をしていて、文字通り金に埋まっているという話を聞いた。
「その男の話に惹かれたんです」とビーチ氏は振り返る。「彼は、ニューヨークのモデルは週給18ドルで、良い服を着ていると言っていました」

金持ちと肩を並べる

「ポケットに85セントを入れ、金持ちと肩を並べるためにニューヨークにやってきたんです」
 交友を求めてコーラス・ガールを訪ねた青年は、ここでも運命に導かれた。彼女たちのうちの1人の兄弟が、JCの芸術家の弟、フランク・ライエンデッカーのためにモデルをしているというのだ。街に来たばかりの彼はライエンデッカーのスタジオに行き、仕事を受けた。数日後にフランク・ライエンデッカーは、彼より有名な兄に、熱心な報告をした。「やっと僕は、休むことを知らない、話すことを拒むモデルを見つけたよ」と。
 翌日、JCはビーチ氏に連絡をしてくるよう求め、そこから半世紀近いアーティストとモデルの友情が始まったのだった。この友情は、ビーチ氏を絶大な、幅広い人気に導き、図画化された彼の顔を一般的なアメリカ人に親しませた。

多くのスケッチのためにポーズをとる

 他の男性たち、多くは去りし時代の舞台俳優も、ときどき自らをアローカラーマンと主張してきた。しかしチャールズ・ビーチは、ボスが描いた何千枚もの自分のスケッチを焼却するとしながらも、それを信じようとはしなかった。
「私がボスの下で働き始めて間もなく、彼はクルエット・ピーボディ社の広告用イラストレーションの依頼を受けました。 スケッチのためのポーズをとるよう彼が私に頼んだのが、アローカラーマンを描いた一連の長い広告画シリーズの始まりでした。その後JCは、私の時間のほとんどを使いたいと私に言って、クッペンハイマー社の服のイラストや、クーパー社の下着や、編み込みの靴下のためにイラストレーションを描き始めたのです。彼が絵を描いている間、私はそれら全てを身につけました。それとは別に、彼はサタデー・イブニング・ポストの表紙にも私をよく起用しました。ボスがしたことは、みんながこういう容姿であればと思っている、その容姿に人々をすることでした」とビーチ氏は言う。「私が黒い地毛に金の染髪をしたようなことを、彼は多くのイラストで追求したのです」
 当時、アローカラーマンは男らしさの象徴だった。アローカラーマンは、澄んだ目としっかりした顎、堅実さと情熱を併せ持つ口元を持っており、全てのブロードウェイの舞台で、彼の男らしい美しさを示すセリフが使われてた。
 ロマンチックな衝動に駆られた女性たちは、ニューヨークの街角でビーチ氏を呼び止め、多くの人が彼から離れられない様子だった。大学、農場、工場など、国中の女の子たちが彼にラブレターを浴びせかけ、次のような歌が流行した。「アローカラーマン、私を愛しているの?」
 チェックの帽子にアローカラーのベルモント襟を着け、ロードスターのハンドルを握ったチャールズ・A・ビーチは、女心が求めるもの全てを持っていた。
 ビーチ氏は暖炉に煙草を放ると、大きな家から出て、広いテラスより繋がる広大な敷地に歩み出した。


形と色への眼差し

「自分の絵と敷地とで、JCは頭がいっぱいでした」と彼は言う。「ほぼ毎朝、彼は庭師に指示を出していました。彼は、形と色への眼差しを持って、全てを計画立てていました。全ての植物や花が、彼の思い通りに配置されています。春になると見事な光景になりますよ」
 ビーチ氏は、最初の芝生を横切るとき、他の芝生にも目をやったが、それは小川を横切って小さな森の端まで続く、滑らかな芝の一面であった。
「今となっては、この芝生は私が刈っているんです」と彼は言った。「私の痩躯を保ってくれる」
  彼は石庭の壁で立ち止まり、もう一本煙草を取り出した。
 ウェストチェスターの遺言検証裁判所で記載されたジョセフ・C・ライエンデッカーの遺言書により、財産の半分が、ライエンデッカーの絵画コレクションの売却と、維持できる限りこの所有地への居住を認める指示と共に、ビーチ氏に残されていたことが先週明らかになった。
 これまで多くの部屋が閉鎖されてきたが、今後は他の部屋にも鍵がかけられることになる。

良い料理人

「人を歓待したこともありました」とビーチ氏は言う。「JCの家族がここにいたときのことです。それ以降は、自分たちと少人数のスタッフだけで生活していました。最近では、私がボスのために台所を担当していました」
「一度、ボスに〈JC、私が料理上手でよかったですね〉と言ったこともあります」
  城を囲むに足る風情がある、広大な敷地を見渡しながら、ビーチ氏は自分の人生で話せることはあまりないと言った。
「これだけです」とビーチ氏は言った。「JCは偉大な人で、私にとてもよくしてくれました。私自身は、必死に働き、常に誠実でした。1903年にボスに出会い、最後まで一緒でした」
 ビーチ氏は、自身のことは芸術家にとって良いモデルと考えているが、カメラレンズの前では劣っていると語った。「カメラは私に恐ろしい、信じられないようなことをするんです」と彼は言い、「もしくは実のところ」と言って、少し笑ってみせた。「まだ自分が見栄えすると思い込んでいるだけの、自惚れ屋なのかもしれないですね」

これは何?

『The Standard-Star』は1923-1998の間にNew Rochelleに所在していた新聞会社で、これはその新聞記事です。Haggin美術館に、チャールズ・ビーチの死亡記事(※)と隣り合わせで展示されています。

チャールズ・ビーチは上記のインタビュー後、比較的すぐに家を売りに出しています。(『The New York Times』が『Artist’s Home Offered』と屋敷を売る記事を出したのが1951年9月16日)ちなみに、絵の一部も売っています。金に困っていたとは考えにくいので、彼なりの理由があったのでしょう。

※ちなみに、チャールズ・ビーチの没年は1952年とCutlerの本にあり、ノーマン・ロックウェルの自伝にも「ジョーが居なくなってすぐ亡くなった」記載があったので疑ってなかったのですが、Haggin美術館に展示されている『The Standard-Star』の死亡記事が1954年発行になっておりかなりドキドキしています。

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