小説『大きな白い寄生虫』

J-C-Leyendecker

 2021年4月にカクヨムにて公開し、そのあと取り下げていた小説。

 ご要望をいただいたものの、カクヨムに再び投稿するのは手間なので、本サイトにて公開する。

端書:

20世紀初頭を代表する米イラストレーター J.C.ライエンデッカー(JCL)をモデルにしたロマンスである。物語内のエピソードには、かろうじて資料に基づいているものと、全く根拠がないものがあるが、おそらく一読するだけでは判別できないだろう。例えば、フェリスとの婚約騒動、ノーマンの家を訪ねたときのチャールズの様子、薪を巡っての一幕、オーガスタによる唾吐きなどは、元ネタとなった文献資料があるものだ。一方で、ウォルター・ウィンチェルにJCLが金を払ったという記録も、フィッツジェラルドとJCLが話した記録もない。JCLとチャールズ・ビーチが恋仲であったというのも、諸説がある

Ch. 1: チャールズ・ビーチ

彼(チャールズ・ビーチ)は本当に寄生虫だった──ジョーの背中にしがみつく、大きくて白くて冷たい虫のようだった

──『My Life as an Illustrator』(ノーマン・ロックウェル著)

 1903年、NY東32丁目の貸しアトリエの前に立つチャールズ・ビーチは、持っている中で唯一汚れていないシャツを着ていた。
 ロンドンでは役者として認められることはなく、NYへの船代で貯金は尽きた。オンタリオの実家からは、隣家の少年とキスをしたときに勘当されて久しかった。
 それでも、チャールズ・ビーチの表情に悲壮な色は見られなかった。
 チャールズはまだ17歳で、彼の人生は始まったばかりだった。上背は6フィートで、カールした豊かな髪に縁取られた面立ちは華やかだった。役者として採用されたことは端役で2回しかなかったが、今後の役者としての成功をまだ疑っておらず、これから売り込みにかかるモデル業についても、足掛けとしか考えていなかった。
 チャールズはネクタイの歪みを直すと、建屋の中に入った。美しい建物だった──昼間にも関わらず廊下に明かりが灯されており、扉同士の間隔が広く、足元のカーペットは美しく艶めいていた。
 目的の扉の前には、小柄な若い男がニューヨークタイムズを手に立っていた。
 その男は細身で、黒髪を丹念に後ろに撫でつけていた。日焼けした肌は鼻筋が通っていて、陰気だが端正な顔つきをしていた。
 男は、チャールズを興味深そうに観察した。
「もしかして、フランクの雇ったモデル?」
 その男は少し吃りながらも、小さな声で尋ねた。男は上品なスーツを着ていたが、手は絵具で汚れていた。この男も画家なのかもしれないな、とチャールズは想像した。
「ええ」
「部屋はここだよ」
 隣の扉を指し示す男に、チャールズは目礼をすると、扉をノックした。扉は一拍遅れて内側から開いた。中から現れたのは、背の低い女性だった。
「あなたが写真を送ってくれたモデルさん?」
 女性はチャールズを部屋の中に招き入れた。黒髪に赤色のスカートがよく似合う、快活そうな女性だった。口には赤い口紅が塗られていた。チャールズよりも一回り年上だろう。
「そうです」
「まあ、実物の方がハンサムね。私はオーガスタ。アスタって呼んで。あれが私の弟であなたの雇い主、フランク・ライエンデッカー」
 アスタは、部屋の中央でスケッチブックを繰っている男を指し示した。
 フランクは、チャールズが入ってきたのを見て扉に歩み寄り、右手を差し出した。フランクの眉は部屋の前に立っていた男とよく似ていた。チャールズは、先ほどの男もこの奇妙な姉弟の血縁なのだろうとあたりをつけた。
「コリアーズの表紙を描いてるんだ」フランクは笑顔で握手を求めた。フランクの手は暖かかった。「今日来るはずのモデルが風邪で来れなくてね。君に一縷の望みを託してたんだが間違ってなかった。ぴったりだ。採用だ」
「まあ、良かったわね。雑誌の表紙になるなんて!」
 アスタに顔を覗き込まれ、チャールズは礼儀正しく頷いた。
 アスタはその仕草に満足したらしく、床に散らばった銀色のチューブ──絵具を使った後だろうか──を拾い上げてゴミ箱に放ると、「じゃあ、また家で」とフランクに手を振り部屋を出ていった。そして、フランクとチャールズは2人きりで部屋に残された。
「今、下塗りプライマーが終わったところで」

 そう言って、フランクがこちらを見て笑ったものだから、チャールズは何か言葉を返さなければならないプレッシャーを感じた。
入門書プライマーが終わった?」
 そのチャールズの言葉に、フランクは笑い声をあげた。
「君、もしかして絵のモデルをするのは初めて?」
「はい」
「見た目が取り柄でよかったな」フランクは揶揄うように言った。それは無知を笑うものではなく、ちょっとした世間話の一貫だったが、チャールズは動揺した。
 チャールズはただ「すみません」と苦笑してみせた。
「大丈夫、こちらが指示する通りのポーズをしてくれれば良いだけだから」
「わかりました」
「まず、そのシャツを脱いでくれないか」
 フランクは、なんでもないことのようにそう指示した。
 チャールズはその依頼に一瞬気遅れしたが、壁に張られた素描──その幾つかは男女の裸体が描かれている──に目をやったのち、シャツのボタンに手をかけた。肌着だけになると、先ほどまで過ごしやすく思えた秋の気候が、急に肌寒く思えた。どうして先程の2人は出ていってしまったのだろう。
「どんなポーズを取れば良いですか」
「そこに置いてある手袋をはめて、後ろを向いてくれ」
 チャールズは言われた通りにして、フランクに背を向けた。
 後ろからフランクの手が腕に触れて、チャールズのポーズを修正した。チャールズは緊張しながら、指示された通りのポーズをとった。フランクの息が酒臭い気がして、チャールズは少し顔をしかめた。
「最後にこれ」フランクは海兵隊の帽子を別室から持ってきて、チャールズの頭に正面からかぶせた。
「あとは、ポーズを保ってくれるだけで良いから」
 そして、フランクはカンバスの前に戻った。チャールズは1日の終わりには日当を手に部屋に帰った。5ドル、役者として働いていた頃には安定して手にできなかった金額であり、学のない17歳の若者の1日の稼ぎとしては破格だった。

 2日後、チャールズはアトリエに舞い戻った。アトリエで、フランクに指示される通りのポーズをとる。先日と異なっていたのは、廊下で見かけた男が同じ部屋で、フランクの完成させた表紙の仕上げを行っていることだった。
「分業してるんだ」とフランクは説明した。
「互いに手が空いてる時に、互いの絵を手伝うんだ。今は俺の方が忙しいから、兄さんのジョーが仕上げを代わりにしてくれている」
 ジョーは顔を上げずに、滑らかな油絵具をカンバスに走らせていた。チャールズはそれを見ながら「なるほど」と相槌をうった。
 昼過ぎから始めたので、5時間後には窓からの光が陰っていた。ジョーは先にアトリエを抜けており、またしてもフランクと2人きりだった。
 フランクは「疲れただろう」と、チャールズを食事に誘った。
 チャールズはその言葉に頷いた。
 チャールズはマンハッタンのロングリーというレストランで、着飾った人に囲まれながら食事をした。神経をすり減らして食事を終えると、フランクはさらに自宅にチャールズを誘った。
 その言葉の意味を、チャールズはよくわかっていた。思い出したのは、小学校の教科書に載っていた詩『The Spider and the Fly』の一節だ──僕の居間に入ってみない?
 よく知らない年上の雇い主の誘いを断らない人間の特徴は? 孤独で、身寄りがなく、愛情に飢えたティーンエイジャー以外にいないだろう。
 チャールズ・ビーチは下唇を噛んだ。ここでチャールズが帰ったとしても、フランクはチャールズを責めずに自分でライフルの掃除──パイプの手入れ──剣研ぎ──自慰を行って寝るだけだろう。だから、ここで帰るのが正しい選択なのかもしれない。
 ただしチャールズは、それまでの人生において正しい選択をしたことがなかった。

 フランクがチャールズを誘ったのは、同じくワシントンスクエアの、4階建てのテラスハウスで、他の住人は2人とも家にいないようだった。3人でこんなに大きな家に住むなんて、チャールズには想像できない世界だった。
 その日、チャールズは初めて男性と肌を合わせたが、恐れていたことは何も起きなかった。恥をかくことも地獄に落ちることも、誰かに罵られ殴られることもなかった。
 しかし、期待していたことも起こらなかった。フランクとの行為に対してチャールズが抱いたのは、軽い納得と、ささやかな失望だった。今まで追い求めていたものが、握手のように鈍い感触を残して去っていった失望だ。
 次の日フランクは、アトリエに現れたチャールズに何も言わなかった。なので、チャールズは何もなかったフリをした。その次の日も、次の週も、フランクの人懐っこい態度は変わらなかった。
 そしてある日、フランクはアトリエに現れなかった。
 ちなみに、ここまでの文章はチャールズ・ビーチの人生における序文に過ぎない。読者が読み飛ばしたとしても、チャールズは気にもしないだろう。
 チャールズが愛した男は、フランク・エグゼビア・ライエンデッカーではないのだから。

「フランクが酔いから回復するまで、待っててもらえる?」
 アスタはチャールズにそう指示して、アトリエを後にした。新聞でも買ってくれば良かった、とチャールズは後悔した。
 チャールズはアトリエに散らばった木炭と、カンバスの切れ端を拾い上げ、窓枠に置かれた花瓶を見据えた。スケッチの真似事をするつもりだった。フランクがそこにあるべきものをなぞるような軽々しさで人体を描き上げるのを見た後では、マーガレットなど容易いターゲットに思われたのだ。
 その楽観はしかし、木炭を布に数回走らせるだけで潰えた。チャールズが指先を黒くして苦戦していると、後ろから「見ても良いかな」と声がかかった。
「ライエンデッカーさん」
 ジョー・ライエンデッカーは汚れたスモックを着ていて、手なども絵具で汚れていたが、髪はいつものごとく丹念に整えられているのが、几帳面をすぎて、少し神経質に見えた。
「ジョーで良いよ。フランクと紛らわしいから」
「ジョー。俺はチャールズ・ビーチです」
「知っている。最近よく見かけるね、挨拶が遅くなって申し訳ない」
 ジョーの視線は、まだチャールズの右手に注がれている。
 チャールズは、黒い染みが滲んだようになってしまったカンバスの切れ端を、ジョーに差し出した。ジョーはそのカンバスを受け取り、それがチャールズの最初の挑戦だと明らかだったからか、「どうやら絵を描くために来たわけではなさそうだね」と小さな笑みを浮かべた。
「いつもの通りフランクに呼ばれて来たんですが、彼は体調不良みたいで」
「ああ、彼は昨日少しハメを外していたから」
 どう応えたら良いかわからず、チャールズはただ頷いてみせる。最後に会った時、フランクはひどく疲れてみえた。より正確に表現すると、チャールズは本調子のフランクを一度も見たことがなかった。
「もし良ければ、僕の気分転換にちょっとしたスケッチに付き合ってくれるかな」
「かまいません」
「良かった。それじゃあ、そこに座ってくれ。いま椅子を用意するよ」
 ジョーは壁際に置いてある椅子に向かって歩いた。ジョーが片足を引きずっていると、チャールズは初めてそこで気づいた。
「どう座れば良いですか」
「普通に」
 その言葉にさらにチャールズがまごついていると、ジョーは少し笑みを浮かべた。
 チャールズは最終的に、椅子に前屈みに座って膝に肘をつき、目の前の窓を向くように指示された。ジョーはスケッチブックを取り出してきて、チャールズの斜め前に腰を下ろした。
 チャールズは、窓の外の雲が動くのをぼんやりと眺めた。チャールズが今住んでいる部屋には錆び付いた窓が一つしかなく、そこから見えるのは隣の建物の壁だけだった。
「歳を聞いても良いかな」ジョーは疑問を投げかけた。
「19です」
 チャールズはポーズを崩さないよう窓を向いたまま、嘘をついた。家出少年ではなく、一人の大人として扱われたかった。
「どこの出身?」
「オンタリオ」
「英国生まれかと思った、滑舌の良い英国訛りだから」
「去年までヨーロッパにいたので」
「そうか。僕はドイツから移民してきたんだけど、言葉からは分からないだろう」
 チャールズは、ジョーの今までの言葉の抑揚を思い出してから、ゆっくりと被りを振った。
「あまり話すのは好きじゃない? それなら、僕は描くのに集中するとしよう」
「いえ。──黙っていて馬鹿だと思われる方が、口を開いて馬鹿だと証明するよりはマシなので」
「賢明な言葉だね。でも僕は、君のことを馬鹿にしたりしないよ」
 ジョーはそう言って、先の言葉の通り、絵を描くのに黙って集中しはじめた。
 時間はゆっくりと過ぎた。チャールズは指定されたポーズから体を動かさないようにしつつ、視界の隅に映るスケッチブックと、ジョーのつむじや、手や、足を観察した。これだけ似ている兄弟なのに、ジョーといる時にはフランクのモデルをしている時よりもずっと楽に感じた。
「ポーズが辛かったら崩して構わないよ」
「ありがとう、大丈夫です」
「うん。でも、他の角度からも見たいから」
 その言葉に、チャールズはジョーの方を見た。ジョーはスケッチブックに埋めていた顔をあげて「正面顔もハンサムだね、そのポーズのままじっとしてられる?」と内気そうに頼んだ。
 ジョーの顔の目尻が妙に美しいのに、チャールズは見惚れた。懐中時計のように緻密でコンパクトで無害そうな雰囲気のある目の前の男は、どういうわけかチャールズの興味を引いた。
「どんな絵を描いてるか気になる?」
 ジョーはしばらくして言った。
「ええ、少し」
「少し待ってて」ジョーは別室に消え、しばらくして細い姿見を引きずって現れた。チャールズはポーズを崩さないようにしながら、ジョーが姿見を椅子の後ろに立てかけるのを見つめた。
「これで、描いてる絵が見えるだろ」ジョーは、先ほどの落ち着いた声でそう訊いた。「もし今後、僕の描いた君の絵が気に食わなかったら、言ってくれていいんだよ。君の顔なんだから、君に権利がある」
 チャールズが、その言葉の意図を掴みかねていると、ジョーは言葉を続けた。
「モデルに気に入られなかったら没にするリスク込みで、僕は生きたモデルを使ってるんだから」
「わかりました」
 チャールズの答えに、ジョーは安心したように肩を竦めると、再び鉛筆を手にとった。
 後から思い返すと、チャールズがジョーに好意を覚えたのは、その瞬間だった。

Ch. 2: ジョセフ・クリスチャン・ライエンデッカー

君は襟につける糊
君は靴の靴紐
君はいつだって僕の必需品で
君がいないと困ってしまう

──『You’re The Cream In My Coffee』(Ray Henderson/Buddy G. DeSylva/Lew Brownの曲)

 悲劇は常に、「もし仮に──がなければ、悲劇は起こらなかっただろう」という言葉で始まる。
 なので、フランク・ライエンデッカーがある朝、アスタに向かって「もし俺がチャールズを家に招き入れなかったら、兄さんはチャールズに誑かされなかったのに」と毒づいた瞬間に、フランクの悲劇は始まったのかもしれない。
 しかし、フランクの言葉には間違いがある。悲劇の本当の原因というのは、大抵その人物の育ちの中にある。
 それを理解するためには、ライエンデッカー家の長男アドルフの説明をした方が良いだろう。
 アドはライエンデッカー家に、ジョセフの5年前に産まれた。弟たちと同じく絵の才能に恵まれていたが、その情熱は油絵ではなくガラス細工に向かった。
 両親はアドのことを他の弟妹ほどには愛さなかった。それはアドのどこか噛み合わない言動のせいかもしれなかったし、ポリオに罹患した挙句、秘蔵っ子のジョーにも移したからかもしれなかった。ちなみに、ジョーは遺言にて、アドの息子──唯一の甥──に遺産を残さなかった。その意味を推し量ることはできないが。
 ジョーはポリオから無事生還したが、それが元でびっこを引き、杖を持ち歩くようになった。同年代の友人たちのからかいは、幼いジョーの心に傷を残すには十分だった。
 心の傷が吃音という形で顕著になるのに時間は掛からなかった。アスタは弟の傷を癒すために力を尽くしたが、ジョーの言葉には細かなスタッカートが残り続け、特に電話口ではそれが顕著だった。
 アトリエの電話が鳴ると大概アスタかフランクが取りに行くこと、受話器を受け取る時ジョーが嫌な顔をすることに、新しいお抱えモデルとなったチャールズが気付くのに時間は掛からなかった。
「ジョー、あなたに電話ですって」というアスタの言葉に同情が含まれていることにも、チャールズは素早く気付いた。
 そして、1904年に運命の瞬間が訪れた。
 
 チャールズとフランクは共同作業を行うことが多かった。2人とも繁忙期がずれることが多いため、お互いがお互いのアシスタントとして働くのだ。モデルも入れ替わり立ち替わり部屋を出入りする。
 しかし、部屋に2人になる瞬間というのは存在する。特にチャールズは、最後まで残ってジョーと2人で片付けをすることが多かった。
 その電話が鳴ったのは、その時だった。
 ジョーは電話に気づいていながら、絵筆を片付ける手を止めなかった。チャールズの視線に気づくと、「必要なら後でかけ直してくる」と言い訳を呟く。電話は切れなかった──当たり前だ、ここに電話のベルが流れるまでに電話交換手の手を煩わせて辛抱強く待ったのだから。ゆうに1分が経過したとき、チャールズは受話器に歩み寄り、その受話器をとった。
 電話の主は、クライアントの一人だった。
「ジョーは今、手が離せないんです」
 チャールズは落ち着いた声で応じた。
 役者志望として身につけたオクスフォードイングリッシュは、NYでは馬鹿らしいほど簡単に信頼される。
「はい、10日にはお渡しできます」とチャールズは言葉を続けた。
 チャールズは毎日のようにアトリエに通い詰めており、さらにはアスタに教えられた仕事の進み具合も覚えるようにしていた。
 ジョーはカンバスの前から動かず、ただチャールズをじっと見つめていた。チャールズに2つ目の頭が生えた、とでも言いたけな表情だった。
 チャールズは受話器を下ろして、今初めてジョーの目線に気づいたといった表情をしてみせた。
「出過ぎた真似をしました」
「構わない」ジョーは、目が醒めたように急いで答えた。
 そして、2人は後片付けに戻った。

 チャールズが各モデルのスケジュールや、ジョーが受けている仕事、そして画材の残りについて恐ろしいほど把握しているとジョーが気付くまでに、そう多くの時間は掛からなかった。
 それはジョーの思っていたような偶然の積み重ねではなく、チャールズの生存戦略の一環だったが。
「そういえば僕は、まだ君の部屋に招かれたことないね」とジョーが尋ねたのが、最後の一押しだった。
「殺風景な場所ですから」
「知ってる」
 ジョーはチャールズを見ずに、小声で続けた。
「クリスマスカードを直接ポストに入れに行ったことがあるんだ。どんな場所か気になって」
「そうですか」
 チャールズは口角を下げた。寝るためだけに使っている寂れた部屋を、目の前の洒落た男に見られるのは身が竦んだ。
 ジョーはチャールズの不興に気づいたようで「ごめんね」と謝った。
「いえ、気にしてません」
「僕が言いたかったのは──アトリエ近くの西31丁目に引っ越さない? 費用は僕が出すから」
 つまり、チャールズはジョーに気に入られたのだ。
 そうして、チャールズは西31丁目に引っ越し、ジョーのモデル兼アシスタントとなった。
 ジョーはチャールズに、絵を納品するごとに賃金を支払うようになった。すべての仕事に対してチャールズが手配をかけるようになったからには、その分け前を与えるのは当然、というのがジョーの言い分だった。
 1905年に差し掛かる頃には、チャールズも役者のオーディションを受けるのを諦めた。役者志望としては珍しくも、チャールズが求めていたのは有名人としての暮らしではなく、靴を泥で汚すことのない人生だった。
 皮肉にも、チャールズ・ビーチは1905年、アメリカで知らぬ人がいないほど有名な存在となる。

Ch. 3: オーガスタ・メアリ・ライエンデッカー

俺の国、お前の国は、クルエット・ピーボディのシャツ、ボストンバーバー、ウィングリーアイを持つスペアミントガールの土地だ

──『Poem, Or Beauty Hurts Mr. Vinal』(E.E.Cummingsの詩)

 1905年。いつの間にか、チャールズがライエンデッカー兄弟と出逢ってから2年が過ぎ、チャールズ・ビーチはすでに19歳だった。
 2年の間に、チャールズとフランクとの関係は奇妙なものになっていった。結局、初めてモデルをした日以来、フランクとは肌を合わせることもキスをすることもなかった。相変わらずフランクはコリアーズのモデルに稀にチャールズを使うが、その頻度も減っていくばかりだった。
 その代わり、フランクは更に酒に溺れていくようだった。
 逆にチャールズとジョーとの仲は、日ごとに親密になっていった。
 アスタとの仲も、決して悪いものではない。
「あなたが子守をしてくれるおかげで、私も少し息をつけるようになった」
 アスタはチャールズに礼を言ったことがあった。
「子守?」
「NYに来てから5年間、ずっと私だけで2人の面倒を見てきたから」
 アスタがあの大きな家の雑務をほぼ一手に引き受けて、画業の事務も行っていることは、チャールズもよく知るところだった。ジョーとフランクがパリに行く資金の一部も、アスタがこっそりと貯めていたものだった。
 この女性は、弟のために青春を犠牲にしていた。
「今まで大変だったでしょう。決して手がかからない人たちじゃないですからね」
「でもまあ、この世の中で、私が独身で好き勝手してられるのは2人のおかげだから。あなたも同じ立場だからよくわかるでしょう」
 物分かりよくアスタはため息をついてから、共感の笑みをチャールズを向けた。チャールズは礼儀正しく笑ってみせた。チャールズの収入の全てがジョセフの財布から出ていることは、公然の事実だった。
「知ってる? 私、もう半年も教会に行ってないの」
「そうなんですね」
「日曜午前に贅沢な買い物をして、家事を使用人に任せて刺繍クラブに入り浸るなんて、家にいたときには考えられなかった。あの2人の面倒を見るのは大変だけれど──でも私には自由がある」
 アスタは目を輝かせた。まるで教会に行かずに済むことが、神からの贈物だとでも言うように。
 チャールズは浅く頷いて共感を示した。
 チャールズもまた、教会に歓迎されない存在だからだ。

「僕に最初に絵を教えてくれたのはアスタだ」
 ジョーはそう過去を振り返った。長兄アドルフが手解きをしたものだと思い込んでいたチャールズは、片眉を上げた。
「アスタは絵が得意な子供だった。でも、僕が絵を描くようになって、アスタの絵が子供の遊びにすぎないと親にバレたんだ。それで、アスタは絵を辞めさせられた。エレン・パイルみたいな女の子は稀ってわけさ」
 しかし、フランクの絵も最初は大したことなかったが、ジョセフと一緒に絵の学校に行くことを親に許された。一度見せてもらったアドルフの昔の絵なんて酷いものだった──しかし、アドルフも絵を食にしてる。
 おそらくは、女の子だから辞めさせられたのだ。悔しかったろうが、アスタは恨言を口にしたことはない。後から泣いて、あの時ああしていればと言っても、周囲を苛つかせるだけだと知っている。アスタは時代が許す限り賢明だった。
 かわいそうに、とチャールズは同情を覚える。
「アスタは面倒見が良いんだ。だから、今でも僕たちと暮らしてくれてる」
 少なくとも、ジョーはそう考えているのだろう、とチャールズは苦く考えた。アスタが技術もなく一人で暮らすこともままならないからジョーやフランクに耐えているのだという考えに、おそらくジョーは耐えられないのだ。
 おそらく、ジョーの脳内ではチャールズもアスタもフランクも、完全な自由意志でジョーの近くにいるのだ。
 チャールズに関しては、その考えは完全には間違っていない。チャールズは役者を目指して飢え死にすることも、季節労働者になって体を壊すことも可能だったが、わざわざジョーの近くにいた。この関係を不均衡で不健康だと人は言うだろうが、チャールズの知ったことではなかった。
「そんなことより」ジョーは声を弾ませて話題を変えた。次に描く絵のことを考えるとき、ジョーはいつでも幸せそうだった。「コノリー氏とカルキンズ氏が持ってきた付け襟の広告なんだけど、構図をいくつか出してみたんだ。やっぱりこれは、君にしてもらうのがぴったりだと思う」
 広告代理店のアーネスト・エルモ・カルキンズは実業家であると同時に芸術家でもあり、ジョーのお得意の題材をよく把握していた。カルキンズの紹介でクルエット。ピーボディ社のC・M・コノリー氏から〈ご参考までに〉とアローカラーブランドの襟が送られてきた時は、チャールズは思わず口笛を吹いたものだ。
「石鹸の広告でも、俺にピッタリだって言ってました」
「そうだったかな」
「靴下でも、車でも」
「本当のことだからね」
 ジョーは目を輝かせて、チャールズのほおに片手で触れた。チャールズはその手に頬を擦り付けながら、ジョーの目には自分がどのように映っているのか、不思議に思った。
「この広告の要となる顔を作りたくて、そうなると君しかいないだろう。打ち合わせ用のスケッチを描きたいから、付き合ってもらってもいいかな」
 チャールズはうなずいた。

 2ヶ月後、使い走りの少年が発注伝票を持ってクルエット・ピーボディ社に駆け込んだ。それを受け取った受付嬢は、「今日はなんだか多いわね」とぼやきながら、その紙を会計係に渡した。 
 会計のその女性は受注伝票の中身を見て心を決め、ほかの伝票をまとめて両手に持って経理マネージャーのオフィスに駆け込んだ。
「ノックは」
「タイラーさん、すみません。でもこれを見てください」

 女性は書面を渡した。馴染みの百貨店──短い距離にエスカレーターがある類──からの馴染みの書式の伝票は、しかしながら通常の2倍の数の発注数が記載されていた。
「どこからもそうなんです。新しい取引先からも電話がかかってきてます」
 彼女はただ、薄くなった在庫の対応をどうするか聞いたに過ぎなかった。しかしながら、タイラーは慌てて受注伝票をひったくり、数字を確認して簡単にまとめてタイプさせると、販売店部門長のデスクに駆け込んだ。
「なんだ」部門長は言った。上司に、タイラーは紙を突き出した。
「何が起こっているんでしょう」タイラーは訊ねた。
「わからん。週末に何か起こったか?」
「いつもより寒かったくらいでしょうか」
「役者がインタビューにでも名前を出したのか。とりあえず、現場に行かなきゃ何もわからん。先方の──百貨店の間違いの可能性もある」
「そうですね」
「私が直接確認してくる」
 そして部門長はデスクを立ち、建物を出て、受注伝票を抱えたまま2ブロック先の紳士服店に向かった。
 そこに貼られていたのは、アローカラーマン──ジョセフ・ライエンデッカーによる、チャールズ・ビーチのイラストだった。

 それは、その後25年間のイラストレーションの黄金期の始まりに過ぎなかった。
 あらゆる壁にアローカラーマンのポスターが貼られ、そのうちの何枚かは盗難の被害にあった。男性は付け襟を求めた。何人もの女性がアローカラーマンにラブレターを書き、その数は数百にも上った。
 さまざまな会社が広告会社カルキンスアンドホールデンに広告を求め、ジョーはその依頼を受けた。チャールズは今や、アメリカ初の男性のセックスシンボルだった。ジョーはアローカラーの広告に他のモデルも使用したが、アローカラーマンと言われて街の人々が思い出すのはチャールズの顔──強い顎の線、艶やかに撫でつけられた髪、上品に長いまつ毛に縁取られた意志の強い瞳──だった。
 アスタは喜び、新しいドレスを購入した。「金の卵を産む白鳥」とフランクはチャールズの肩を叩いた。
 フランクはジョーの仕事の手伝いに明け暮れた。家全体が明るくなったようだった。酔ったような高揚感がチャールズとジョーを包んでいた。夜遅くまで仕事をして次々と仕事をこなし、今度は朝まで台所にこもって酒を飲みながら、2人でふざけた話をして笑い転げる日々が続いた。
 そしてある日、チャールズはジョーにキスをした。

 すべては乱雑に進んだ。
 チャールズがジョーにキスをした時、ジョーは何も言わなかった。ただジョーはいつものように目を輝かせて、チャールズの手を引いて階段を上がり、チャールズを自室の寝室に招き入れ、再び唇を合わせた。
 2回目のキスは、一度目と同じくらい唐突に感じた。ジョーはチャールズの首に手をかけて、チャールズの唇をなめた。チャールズは震える手で服を脱ぎながら、その口付けに応じた。
 蝶番が壊れた扉を閉めたときのように、全てが間違ってズレているように思えた。その疑念は、ジョーがチャールズの首元に手を置いたときに確信に変わった。
 もしかしたら、俺は体を重ねるのが苦手かもしれない、とチャールズは思った。男性が好きで、かつ女性に欲情できないことは確実だったので、とても奇妙な気づきだった。セックスが苦手な人類なんているだろうか? 
 しかし、ここでジョーを諦めるには、チャールズはジョーのことを愛し過ぎていた。

 すべてが終わったのち、「君の服は汚れてしまったね」とジョーは穏やかな声を出した。
「ええ」
「でも、僕の服は君には小さすぎる」
「はい」
「汚れた服を着て帰るのは嫌だろう。明日の朝、僕が君の家に行って服を取ってくるよ。──とりあえず、今は寝よう」
「はい」
 チャールズは壊れたレコードのように繰り返したが、壊れているのはチャールズ自身だったのかもしれない。現実味がなくて頭がうまく回らない。チャールズは、ジョーの隣に横たわり、枕を調節して目を閉じた。
 次の日の朝、チャールズはジョーを起こすことなく洗面台で服の汚れを落とし、毛布に紛れ込んだ靴下を探すことさえできた。勝利だ。
「やったね」チャールズは独りごち、部屋から出て、ゲストルームへと続く廊下を歩いた。
 しかし、チャールズがこっそりと部屋から出る姿は、朝早くの散歩を楽しみに起きてきたアスタに気づかれることとなった。

 アスタはその日の昼、半年ぶりに教会に顔を出し、ジョーをチャールズの手から救うよう神に祈った。
「チャールズなら他の誰でも狙えるでしょうに、よりによってジョーを堕落させるなんて」
 アスタは、〈不道徳な行為〉に関わったフランクが薬と酒に溺れていくのを目の当たりにしていた。ジョーまでもが同じ道を辿るのは避けなければならなかった。
「神様、私にはジョーしかいないんです。チャールズのせいでジョーがダメになってしまったら、実家に戻らないと」
 アスタがチャールズに感じていた仲間意識は、あっけなく潰えてしまったのだった。

 3人の母親──エリザベス・ライエンデッカーの訃報がシカゴから届いたのは、偶然にも同日の夜だった。

Ch. 4: エリザベス・ライエンデッカー

あなたは最高! あなたはアローカラー!

──『You’re The Top』(Cole Porterの曲)

「ニューロシェルに引っ越すことを検討してるんだ。ペラムロードに良い貸し家があったから」
 フランクが相談を持ちかけたのは、1905年の冬、アスタ、ジョー、フランクが彼らの母親エリザベスの葬式から帰ってきてしばらくのことだった。ジョーとフランクはブロンクスのウッドローン墓地に家族の墓を買ったので、エリザベスの埋葬式は改めてNYで行われる予定だった。
「ニューロシェルですか」
 チャールズはそう聞き返した。チャールズがワシントンスクエアのテラスハウスのゲストルームに入り浸るようになり、3ヶ月が経過していた。ライエンデッカー兄弟がどこに行くのだとしても、チャールズも共に行く所存だった。アスタに嫌われていたとしても関係なかった。チャールズはアスタのことを、人生という名のエレベーターに一緒に乗り込んだ仲間のように思い始めていた──降りる場所は違っても、それまではうまくやっていかなければならない。
 しかし、フランクは表情を翳らせた。
「シカゴには母さんの親戚しかいないから、親父──ピーター・ライエンデッカー──をこちらに呼んで、一緒に暮らそうかと思うんだ」
 ライエンデッカー一家は、母エリザベスの兄が勤めるシカゴの醸造場を頼りにアメリカに移民したと聞いていた。なので父ピーターの近親は、ジョーたちを除くとドイツのモンテバウアにしかいない。今年で66歳と聞くし、一人で住まわせるのは確かに心配だ。
 しかし、それをわざわざ話すということは。
「俺は一緒に行かないほうが良い?」
 チャールズの推測に、フランクは安堵の表情を浮かべた。フランクがジョーの使いであり、チャールズを説得する使命を持ってチャールズに話しかけたことは、火を見るよりも明らかだった。
「チャールズ、お前は本当に勘がいいよな」
 そして、ライエンデッカー三兄弟はニューロシェルに引っ越した。すぐにピーター・ライエンデッカーが家に越してきたため、チャールズはジョーの新居祝いに招かれなかった。代わりに、同じく引っ越しを検討しているコールズ・フィリップスや、ギブソンが招かれたらしかった。
 チャールズがこの出来事から学んだのは、ジョーの父親のせいで自分が追い出された──ジョーの家族は警戒する必要がある、という事実だった。
 フランクとアスタも特例ではない、とチャールズは考えた。フランクはチャールズとの一夜を恨んでいるかもしれないし、アスタはチャールズに仕事を取られたと思っているかもしれない。2人がその気になれば、チャールズは簡単に追いやられてしまうだろう。そうしたら、きっとチャールズは生きていかれない。
 チャールズはジョーの世界の全てではないが、ジョーはチャールズの世界の全てなのだ。
 フランクもアスタも善良な人間だが、チャールズの両親とて善良な市民でありながら子供を見捨てた。歴史は繰り返すと言うではないか。

 チャールズは以前と同じく、東32丁目のアトリエでジョーと逢引するようになった。
 フランクは元来の〈人生につまづいたような状態〉に囚われてアトリエに殆ど来なくなり、アスタをひどく心配させたが、チャールズにとっては好都合だった。
 ジョーがアトリエの扉を開けると同時に出迎え、仕事をして、キスをして、まれに一緒に酒や食事をしに行く。一緒に夜道を散歩することもある。
 チャールズは部屋の中の時計を全て取り外した。自分がどれほど必死にジョーを待っているか、認識するのが嫌だった。
 気を紛らわせるため、役者時代の友人と出かけることもあったが、決して彼らをジョーに紹介することも、アトリエに招き入れることもしなかった。
 どうやらジョーはチャールズが人脈に欠けていると思っているようだったが、チャールズは勘違いを正そうとはしなかった。
「俺、納屋で飼われている馬の気分です」とチャールズは軽口を叩いたことがある。「あなたが来たときだけ構ってもらえて。屋根も餌も与えられて」
 ジョーは、虚をつかれたように動きを止めて、チャールズのことをまじまじと見た。
「今の暮らしが不満なのかな」
「お察しなら、何とかしたらどうです」
 ジョーはいつものように目を逸らした。ごまかすためにキスでもしてくれたら良いのに、とチャールズは考える。体を合わせるのはまだ苦手なままだったが、キスは好きだった。
「不自由な思いをさせて申し訳ないと思っている。でも、僕は父から君を守ってるんだ」
「疑わしいですね」
「本当だよ。君がいなくなったら僕はとても困るんだから」
 その言葉は一部正しい。危うい立場にいるように思えても、すでにジョーの絵画製作はチャールズ・ビーチの存在とともに成り立っているのだから。
 チャールズ・ビーチの日々の仕事を解説しよう。
 ジョセフ・クリスチャン・ライエンデッカーの仕事は、チャールズがアトリエのポストを開けて企業からの依頼書を取り出すところ、もしくはチャールズがアトリエで電話を受けるところから始まる。
 チャールズはクライアントと相談しながら、依頼を精査し、対価を交渉し、スケジュールを調整する。チャールズが帳簿やカレンダーを見ながら顔を顰めていると、ジョーが近づいてきて声をかける。
──僕は次、何を描けばいい?
 そして、仕事はジョーの手に移る。
 ジョーの仕事は、一枚の紙に小さな四角をたくさん描くところから始まる。そしてその一つ一つを、ポスターや雑誌の表紙に見立てて埋めていく。そうやってアイディアを見比べて、どの構図を使うのか決めるのだ。
 そして、チャールズにアイディアを見せて、モデルを手配するように依頼する。
 チャールズはジョーのイメージするモデルを捕まえて──自分がモデルとして抜擢されなかった場合のことだが──補給分の画材と共にアトリエに迎え入れる。
 そして、再び仕事はジョーの手に移る。ジョーはモデルのスケッチを取る。スケッチを組み合わせて全体図を考え、さらに詳細なスケッチを取ることもある。髪のほつれ、指の曲線、こめかみに当たる光。それをトレース紙でカンバスに移し、ジョーとフランクしか知らない配合で溶いた、すぐ乾く滑らかな油絵の具で描く。
 完成した絵は依頼者に届けなければならない。チャールズは絵を郵送し、ときにはフィラデルフィアまで絵を持っていき、請求書を作成して送付し、対価の小切手を受け取って小切手の処理を行い、稀に現金を受け取って受領書を渡し、数週間後に完成した雑誌やチラシを店舗で購入してきてジョーに渡す。
 そして、ジョーはチャールズに、成果の一部を給料として支払うのだ。
「そういえば、NY図書館の天井画の話は、やはり断っても良かったんですか」
 緊張した空気を変えようと、チャールズは話題を提供した。ジョーはあからさまに肩の力を抜く。
「あんなの、時間がかかるだけで身の入りが少ないから」
「でも、業績にはなります」
「興味ない」
 チャールズが説明を求めるように見つめると、ジョーは少し吃りながら言葉を続けた。
「ああ──優れた作品によって永遠の命を手に入れられると信じるタイプって、確かにいるよね。でも、僕はただ懸命に絵が描けて、たくさん稼げれば良いんだ。神はただ、僕にふさわしい道筋を示してくださる。ほら、こんな名前だからね」
「ジョセフ・クリスチャン?」
 確かにキリスト教徒らしい名前ではある。しかし、ジョーは首を振って、苦笑してみせた。
「合衆国に来て改名する前は、ジーザス・クライストだった」
「冗談でしょう」
 チャールズは笑ったが、ジョーはただ微笑みを崩さなかった。
「我が家は元を辿るとユダヤ系で、父はカソリック風の名前を僕に付けたがった。フランクの名前もそうだ。──我が家は何でも隠したがるんだ。今だって、僕には意中の女性がいることになっているし、フランクの酒癖はないことになっている」
「ややこしいですね。俺の親は単純に俺を叩き出しましたよ」
 そこでジョーがひどく悲しい顔をしたので、チャールズは自分がまた間違ったことを言ったのだと気付いた。ジョーと対等に並び立てるよう懸命に仕事を覚えても、こうした些細なところでしくじってしまう。チャールズがジョーから受け取りたいのは、同情ではなく、対等な立場への尊愛なのに。
 やがてジョーはニューロシェルに帰っていき、チャールズは再びアトリエに取り残された。初めて足を踏み入れたときには夢のように感じられたこの建屋も、この頃は寂しいばかりだった。

Ch. 5: ピーター・ライエンデッカー

僕がこのようにあなたを愛することは
罪なのだろうか、犯罪なのだろうか?

──『Guilty』(Richard Whiting/Harry Akst/Gus Kahnの曲)

 「金食い虫」とフランクはチャールズの陰口を叩いた。ジョーが高価なプレゼントをチャールズに止めどなく買い与えたからだ。
 アスタはチャールズに「赤ちゃん鴨」とあだ名をつけた。チャールズがどこに行くにしてもジョーの後ろをついて回ったからだ。そのあだ名は正しく、チャールズはジョーのアトリエで日中のほとんどを過ごしていた。ニューロシェルの家にすら、ピーターがいない隙を見つけては足繁く通った。
 そして、ジョーはチャールズのことを「愛しいひと」と呼んだ。ただし、周りに誰もいない時だけだったが。
 ジョーが1910年にアトリエにて話を切り出したのも、その呼び名と共にだった。
「ねえ、愛しい人。新しいアトリエを借りようと思うんだ」ジョーは提案した。「部屋が多い、君が住み込みで働くことができる場所を探すよ」
 その決断には先日出席したサイの結婚式が影響していると、ジョーもチャールズも気づいていた。若い画家と、モデルとなった若い女性の結婚式──2人とも幸せそうに笑っていた。
「嬉しいです」
「君が気に入るアトリエにしよう。君はなかなかセンスがいいから」
 それがお世辞か本心か分からなかったので──ジョーは皮肉を言うようなタイプではない──チャールズはただ頷いた。
 かつては、ジョーといると楽だった。
 今は違う。チャールズは、ジョーを失うことに怯え、慎重になったのだ。ジョーの言葉の裏を考えてしまう。ジョーの仕事仲間やモデルたちを警戒し、出過ぎた真似をしないように自分の行動を規制してしまう。

 1910年の初夏、新築の建屋──のちにボザールビルと呼ばれる──に最初に運ばれたものはトルコ絨毯だった。パリでジョーが購入したもので、青い起毛が密に編み込まれている。それに、椅子やボード、多くの額縁が続いた。
 一室がチャールズに、一室がフィリピン人の少年に割り当てられた。少年は米比戦争の直後に母親と一緒に移民してきて、近所の料理屋で下働きをしていたところ、店の常連だったフランクの友人に気に入られてジョーに紹介されたのだった。
 チャールズはカーテンを青色に張り替え、ジョーがそれに文句を言わないのを見ると、ドアノブを付け替えた。そして、家具を買いに出かけた。全ての角が曲線でできた椅子、赤い縁の大きな鏡、全面に刺繍が入った青いヘッドボードがついたベッド。
 仕事道具──イーゼル、カンバス、絵の具──がメインルームに運び込まれたのは最後だった。
 アスタの祈りが通じたのか、フランクは不調から抜け出し、また仕事を請け負うようになっていた。ジョーに比べると数は少なかったが、それを指摘するほどにはチャールズはフランクのことを嫌ってはいなかった。
 フランクが、アトリエのチャールズの部屋に初めて入ったのは、アトリエを引っ越してから1ヶ月は経った頃だった。
 チャールズの部屋は寝室と事務室を兼ねたもので、その時のチャールズは机に座って帳簿に今月の支払いを纏めているところだった。
「油が無くなった。明日までに調合して置いておいてくれ」
 その日、ジョーはたまたま留守にしていた。フランクの面倒を見るのは普段はアスタの役割だったが、アスタはボザールビルに殆ど足を運ばなかった。ボザールビルには役者や芸術家が多く住んでいたが、アスタはその中の女性詩人を新たな友人と定め、ペラムロードに招いて読書会などを開くのに忙しそうだった。
「わかりました」
「初めて入ったが、ゴタゴタしてるな」フランクは物珍しそうに部屋を見回した。「悪趣味だ。使用人の控室とは思えない」
「ジョーと俺の主寝室としては、控えめな方でしょう」
 フランクは一瞬だけ眉を顰めたが、その表情はすぐに消え去った。フランクもこのアトリエは気に入っており、よく友人を招いていた。友人を真に感心させるためには、椅子を勧めて酒を注ぐ、住み込みの秘書の協力が必要だった。
「あまりそういうことを言わない方が良い。噂は広がるものだから。アトリエにいつもお前がいることを、どうやら父も知ってるらしいし」
 フランクは、まるでそのことを話しに来たのではないような自然さで口にした。
 チャールズは感電したように、体を強張らせて窓に目をやった。今にも暴徒が窓を突き破って自分に襲いかかってくるような気すらした。フランクは同情したようにチャールズを見やった。
「あなたの父は、どこまで知っているんですか」
「お前がとってもハンサムだってことと、僕たち兄弟がハンサムな男性に目がないってことだけ」
 つまり、全て知っているのだ。
 チャールズは帳簿を閉じて、慎重にフランクの顔を観察した。
「どうするんですか」
「わからない。とりあえず、作戦はこうだ。来週、お前はアスタのお茶の客として、女の子を連れてペラムロードで父に会う。その間、俺たち兄弟はアトリエで仕事をしている。アリバイ成立だ」
 ジョーのいない間に父親と? どこか悪い予感がする。
「なあ、嫌だったら断っていいんだぜ」
 フランクは同情を込めてそう言った。その言葉により、この作戦がジョーの作案したものだということが明らかになった。
 そしてチャールズは、ジョーの言葉を断ることができない。
「いいえ、行きます。──いつになくお優しいですね」
「死刑宣告された人間につらくはあたらない」
 その言葉にチャールズが顔を曇らせたので、「まだ覆せる、大丈夫さ」フランクは疲れたように笑った。「モデルでも何でも良いから、ともかく女の子を連れてくるのを忘れるなよ」

 次の週の土曜日、チャールズ・ビーチはペルハムロードにあるクリーム色のレンガの家のまえで、いつまでも現れないレジーナ──事情を知っているメアリの女友達──に痺れを切らしていた。駅で待ち合わせるはずだったが、駅の掲示板には先に向かっている旨の連絡があり、そのままはぐれてしまった。
 チャールズの目の前を何台もの車が通りすぎた。皆、水着を持って浜辺に行くのだ。この天気の良い土曜日に、尋問を受けにいくのはチャールズくらいなものだろう。
 ここがパーティー会場ならよかった、とチャールズは絶望の淵で思った。それなら、彷徨っている適当な女の子に声をかけることができたのに。一人で家に訪ねるなど、やましいことがあると言うようなものだ。
 もしかしたら、レジーナは先に家の中に入っているのかもしれない。かつての俺は楽観主義者だったはずだ、楽観視しろよ、とチャールズは自分を叱咤した。
 チャールズはやがて決心を固め、その家のドアベルを鳴らした。途端に犬──ピーターが飼っているコリー2匹──が吠えたてる声が聞こえ、少し緊張が和らぐ。てっきり使用人かアスタが出ると思ったが、その扉を開けたのは壮年の男性だった。
 ピーター・ライエンデッカーは、顔立ちはアスタに一番似ていたが、カールした髪はフランクと同じだった。そして、その瞳はジョーと同じものだった。スペイン人のように引き締まった顔をしているな、とチャールズは脳裏で考えた。ピーターもチャールズを黙って観察しているようだった。
「君がチャールズ・ビーチか」
 やがてピーターは、ドイツ語の訛りの影が見える英語でそう呟いた。すべてを見透かしたような瞳には、諦めが見え隠れしていた。
 チャールズは、レジーナがこなかったことを神に感謝した。どちらにしろ誤魔化せなかっただろう。
「とりあえず、上がりなさい」
 アスタはリビングのソファの肘掛けに座っていて、チャールズがリビングに入ると立って出迎えた。
「あら、レジーナは一緒じゃないのね」
 アスタはそう囁いたが、今にも逃げ出したそうに見えた。ピーターも同じことを思ったのか、急に優しい声色で「アスタ、少し外に散歩に行ったらどうだ」と提案した。
 かわいそうにも、事態を宥める指令をジョーとフランクから仰せつかっていたのだろうアスタは、いきなりの追放令にしどろもどろになった。
「でも、私、ここにいなきゃ」
「どうしてだ」
「喉も渇いたし、それに、外は暑いわ」
「道を降りたところのカフェに行っておいで、美味しいアイスクリームの店があるらしい」
 それでもアスタが躊躇していたので、チャールズは「大丈夫、2人きりにしても誰も死なないよ」と、自分の希望も込めて口にした。
「それじゃあ」アスタは頷いた。そして、しばらくハンドバッグを探すなどの口実で家中を彷徨ったのち、家を出ていった。
 ピーターは酒を勧め、チャールズはそれを受けた。そして、2人はリビングの向かい合ったソファにめいめい腰掛けた。
「ジョーと出会ったのは」
「もう10年になります」
「じゃあ5年間、俺から隠れてたのか」
 〈ジョーにより隠されていた〉がより正しいだろう。しかしチャールズはその言葉に反論せず、わざとらしくないよう周りを見回した。
「素晴らしいお宅ですね。初めて来ました」
「ああ」ピーターはチャールズのあからさまな嘘に頷いた。コリー犬のプリンスとドンは、慣れた様子でチャールズの足元に寝そべっている。
「どうしてジョーがお前をここに来させたのか、ちっとも理由がわかってないんだ」
 チャールズには、その理由がわかっていた。女の子を連れてのアリバイ作りが真の目的でないことも。
「俺とあなたが仲良くなるのを望んでいるんでしょう」
 ピーターが顔を顰めたので、チャールズは同情の意を込めて頷いた。
「彼はごく僅かな人間にしか心を許さない。家族と俺と、サイやオーソン・ローウェルのような絵描仲間と。俺たちは彼の世界の全てなので、その中で諍いがあると彼は消耗するんです」
「なるほどな。ジョーは小さいときから内気で、おれとリズが喧嘩すると、死にそうな顔をしてた」
 混乱してアスタに泣きつく幼いジョーの姿が目に浮かぶようだった。アスタやフランクが今だにジョーに対して過保護なのも、そういった生い立ちが関係しているのだろう。
 ピーターはため息をついた。ピーターのため息を、俺はすぐに聞き飽きることになるのだろうな、とチャールズは胸の内で考えた。
「バリモア3兄弟のように才能豊かな子供たちを授かって、豪邸で養われてなお文句を言うなんて、と自分でも思うんだ。でも、寝るときに考えるのは、あの3人の人生が堕落してしまったってことばかりだ。稼いだ金を使うことばかりに熱心になって、遊び歩いてばかりで」
「でも、俺はその原因じゃない」
 チャールズはそう主張した。
「フランクもアスタも、俺が新しいアトリエを買わせたと思い込んでますが、ジョーのアイディアです。俺をモデルに採用したのも彼です。あなたをペルハムロードに呼んだのも彼だ。子供の頃は知りませんが、今の彼は意志の堅い、周りを思い通りに動かしたがる男です。生半可な意思の男では、アメリカで一番のアーティストにはなれなかったでしょう」
「知ってる、お前さんが堕落させたとは思ってないよ」
 ピーターはやけに物分かりが良い。もちろん、上背があるチャールズに殴り返されることを恐れたのでなければ、ピーターはチャールズを杖で袋叩きにしていただろうが。チャールズは、自分の体格が人並みよりも大きいことを、再び神に感謝した。
「やはり俺は、ジョーが俺とお前さんが仲良くなるのを期待しているとは思わないね」
「そうですか?」
「どちらかがどちらかを追い出すのを期待してるんだろう」
「まさか。ジョーはそんな人じゃありませんよ」
「ずっと昔、フランクの〈趣味〉をアドが糾弾したとき、俺もリズも、ジョーの味方をしたんだ」
 ここでピーターは再びため息をついた。まるで、罰当たりだが才能豊かな子供を、才能はないが孫を授けてくれる子供よりも優先させたのは、人生における一番の損失だというように。
「そして、アドは家を出ていった。同じことが起こることを期待してるんだろう。俺が出ていくか──お前さんが俺に追い出されるか」
 2人は無言でグラスを傾けた。窓からは明るい夏の光が差し込み、窓枠が濃い影を絨毯に落としていた。
 ピーターは自分と同じ立場なのだ、とチャールズは思った。ジョーに養われている立場。もし他の人間と揉め事を起こしたら、短い生い先を一人で過ごすことになるかもしれないと承知している。もちろん、追い出されるのはチャールズの方かもしれない。
 長年の愛人と、愛すべき父親。どちらもオッズは低くないだろう。しかし、それを試すだけの度胸はピーターにもチャールズにもなかった。
「閉じた扉の後ろで何をしようと私は気にしない。でも、この家には──合衆国中に著名なイラストレーターの家には──お前さんはいるべきじゃない。わかるだろう?」
「もちろんです」
 チャールズは頷いた。他に何が言えただろう。
「とんだ馬鹿息子だ」
 ピーターはさらにため息をつくと、グラスを傾けた。
 チャールズもその卑罵語に異論はなかったので、自身のグラスを持ち上げて賛成の意を示した。
 そして、再び呼び鈴が鳴った。吠えたてる2匹を諌めながら玄関に向かったピーターが黄色のワンピースを着たレジーナを連れて入ってきたのを見て、チャールズは本日何度目か分からない神への感謝を捧げ、これ幸いと椅子から飛び上がった。
「ひどく迷子になっちゃったわ」レジーナは額をハンカチで拭った。「すぐに着くと思ったのに、入り組んだところにあるんですもの」
「仕方がないよ」チャールズはレジーナの肩に手を置いて安心させた。レジーナはチャールズの笑みに照れたのか首を赤くした。「ところで、道を降ったところに美味しいアイスクリームの店があるらしい。すぐに行ってみないか」
「あら。でも着いたばかりなのに、悪いわ」
「ピーターと俺とは、もう話が終わったんだ。これ以上話すことは何もないさ」

Ch. 6: コールズ・〈サイ〉・フィリプス

彼(コールズ・フィリプス)は、アメリカ的な若い女性を表現することでは、ほとんどの人の先を行っていた

──『All-American Girl』(J.C.ライエンデッカーの言葉)

 1914年、第一次世界大戦の開幕と同時に、マウントトムロードの屋敷は完成した。ガゼボにロータリーに大きなローズガーデン、家屋内は曲線で縁取られた様々な部屋が、滑らかに繋がっている。チャールズが数年がかりで工事作業を取り仕切ったが、そこに住むことは能わなかった。ピーターの目があったからでもあり、ジョーが望んでいなかったからでもあった。ジョーはお詫びとして、ニューロシェルに住むカップルが出演している『Watch Your Step』を観にチャールズを連れていった。
 その芝居はつまらなかったが、ダンスを見るのは楽しかったので、チャールズは理不尽な世の中と、ピーターに対する怒りを忘れることにした。
 
 ピーターが死んだのは、邸宅竣工の2年後、1916年のことだった。
「父が倒れた知らせが届いた。死の床にいるから戻ってこいって。アスタもフランクも病院にいる」
 チャールズは、自分の父を思い返した。子供の頃は大好きだった、厳格な父。チャールズが〈不道徳な行い〉をしなければ、今でも仲がいい親子でいられただろう。
「今すぐ荷造りします」
「喪服も入れてくれ」ジョーは平坦な声を出した。ショックを隠しきれていなかった。
 ジョーはコールズ・〈サイ〉・フィリプスに連絡し、急ぎの表紙を肩代わりしてくれるように依頼した。チャールズはクライエントに連絡し、サイが代わりに担当することを話した。──はい、お代はコールズ・フィリプスに。はい、次のご依頼は格安でお引き受けします。はい、彼は女性誌ならうってつけですよ。
 ジョーの友人の中でも、サイのことはチャールズも気に入っていた。サイは子煩悩で愛妻家であり、ジョーどころかチャールズにも礼儀正しく接する青年だ。さらにはルパート・ブルックのような繊細で美しい──しかし全くジョーの好みとは異なる──顔立ちをしていた。今回の無茶な頼みも、彼は気遣いを持って引き受けてくれた。
 ジョーは葬式の後の2週間、アトリエに来なかった。チャールズは、傷ついたジョーの近くに居たいと思いつつも、その方法が分からなかった。マウントトムロードの家は、その奇妙な姉弟がお互いを慰るだけの、閉じた空間となってしまっていた。
 そしてチャールズが、もうジョーは二度とアトリエに来ないのではと疑心暗鬼になってきた時分、ジョーは夜中に訪ねてきた。
「お元気でしたか」チャールズは言って、ボーイに暖かい飲み物を用意させた。
 ボーイは紅茶を入れると「この度は──」とジョーに声をかけて言い淀み、そのまま諦めて一例をして自分の部屋に引っ込んだ。この少年は最近料理人になるために料理店と兼業していて、明日も早起きしなければならない。
 他に誰もいなくなるとすぐに、チャールズはジョーの隣に座り、顔を覗き込んだ。
「どうしたんです?」
「君は工事監督をしたから知っているだろう。 まだたくさん部屋がある」
 父の使っていた部屋も空いたし、という裏の意味を汲み取りつつ、チャールズは頷いた。
「また一緒に暮らさないか。君に会うために40番通りに通うのも悪くないけれど、もし良ければ」
 その言葉を発するのにジョーがどれだけ勇気を振り絞ったかは、握り締められた絵筆を見れば察することができた。
 チャールズは、目の前の男を見つめた。このまま何も言葉を発しなければ、この溢れるような幸せがずっと続くのかもしれないな、と少し考えた。それは素敵な空想だった。
「俺、今のままで良いかもしれません」
「どうして?」
「──俺、多分どこか変なんです。もうあなたと体を合わせたくなくて」
「病気?」
 ジョーの疑問に、慌ててチャールズは首を振った。
「そういう意味じゃなくて、最初の時から変だったんです。俺、多分セックスが好きじゃなくて、できればしたくないなって」
 ジョーは、眉尻を下げてチャールズをじっと見つめていた。チャールズは、徐々に顔が羞恥で赤くなっていくのを感じた。
「でも、あなたを愛してるのは本当で、あなたのことが一番好きなんです。だから黙ってたんですが、俺──」
「一緒に暮らしたくない理由がまだわからない」
「もうセックスしたくないんだって言っているでしょう!」チャールズは小声で叫んだ。「何度言わせるつもりですか、もう嫌なんです。俺を追い出すなら今ですよ」
 ジョーは冷たい表情でチャールズを見つめた。
「ごめん、いまいち分からないな。つまり君は、今まで僕とセックスするために僕と暮らしたがっていて、今はセックスが嫌になったから僕と一緒に暮らしたくないってこと? だとしたら最悪だ」
「違う」
「違う? それなら、もしかしてと思うけど、僕が君とセックスするためだけに君を雇っていたと思ってるのか? だからセックス無しでは君と同居しないだろうって? さらに最悪だ、決めつけるなよ」
 ジョーは徐々に声を荒らげて、最後には叫びにすら聞こえた。チャールズは、呆然と目の前の男を見つめた。ジョーはまだ怒りが解けないのか、荒々しく部屋の中をうろついたのち、隣の部屋に向かい、グラスをふたつ持って現れた。チャールズは、差し出された酒を黙って両手で受け取る。
 ジョーはチャールズの隣に座ると、グラスを傾けて一気に飲み、乱暴に机に置いた。そして、両手で顔を覆う。
「最悪だ」
「ジョー、ごめんなさい」
 チャールズは混乱しながらも謝ったが、ジョーはそれには答えず「最悪だ」と繰り返した。そのまま苦痛に感じるほど長い時間が流れ、やっとジョーは口を開いた。
「さっき言ったことは本当なのか。僕のことを愛しているって」
 チャールズは、ジョーのこめかみの皺の美しいのに見惚れた。ここで否定する言葉を発すれば、ジョーは二度とチャールズの前に現れないだろう。
「はい」
 チャールズは、泣くのを我慢してしゃがれた声で、そう答えた。
「僕も君を愛してる。君の嫌がることは何もしないから、マウント・トム・ロードで一緒に暮らしてくれないか」
 チャールズは、ジョーの肩に頭をもたせかけて、その提案を検討した。心の中の声は、どうせ嘘だろう、と断言した。秘密を明かしてジョーを拒絶した以上、追い出されるのも時間の問題だ、と。
 しかし、チャールズはジョーを信じたかった。
「屋敷に俺が引っ越したら、ドンとプリンスは喜ぶでしょうね」暫くしてチャールズは言った。ジョーは犬が好きで、かつてパリで飼っていた黒斑の犬をよくイラストに描いていたほどだったが、ピーターがシカゴから連れてきた2匹の犬はジョーよりもチャールズのほうに懐いていた。
「だろうね」ジョーは笑い含みの声で答えた。「今度、あいつらを連れて遠出でもしよう。車、新しいのを買おうかと思ってたんだ。ロードスターとかどうかな」
「俺は運転できませんよ」
「僕が代わりに運転するよ」
「あなた無しじゃどこにも行けなくなります」
「運転手を雇おう」と、ジョーはなんでもないことのように決めた。
 2人はしばらく、手を繋いだまま、そのソファに座っていた。手を繋ぐだけでは不十分で、ジョーはいつか立ち上がってしまうのではとチャールズは恐れたが、ジョーはチャールズが促すまでソファに座ったままだった。

 ジョーが2週間アトリエに来なかった理由をチャールズが知ったのは、引っ越した当日のことだった。
 2週間の間、フランクとアスタを説得していたのだ。チャールズと同居するのに、2人はひどく反対したらしい。
 そしてジョーは、彼らの反対の声を無視することに決めたのだった。

 家の建設費用はジョーが持ったが、維持費はジョーとフランクが分割する約束をしていた。しかし、フランクは最近また不安定になっていた。どうやら、付き合いのあった男性に不幸があったらしいが、詳細は誰にも語ろうとしなかった。
 アスタは相変わらず、フランクの締切破りや不手際の言い訳に奔走していた──フランクは気に入らない仕事をする時、わざと歪んだイラストを描く癖があった。クライアントの希望よりも陰鬱な雰囲気の絵を描いて、描き直しの依頼を受けるのもしばしばだった。
「俺が代わりに払いますよ」とフランクに初めて提案したのは1917年の春、庭を眺める位置にあるポーチでのことだった。フランクと仲直りするきっかけになればと思っての提案だった。
「必要ない」
「ご遠慮なさらず。俺も一緒に住んでいる以上、支払いに不服はありません」
 チャールズの真剣な表情を見て、フランクは大仰にため息をついた。
「そもそもがお前じゃなくてジョーの金だろう。俺たちがお前のことを叩き出してないのは、ジョーが幸せそうだし、お前が路頭に迷うのは寝覚が悪いからだ。情けをかけてやったのを、お前はぬけぬけと」
 チャールズはフランクを睨みつけた。親切心からの提案にここまで過激な反応を受けたことが心外だった。
「それはお互い様でしょう。あなたが家にいてもジョーが不幸せになるだけだが、道でのたれ死にされるのは寝覚が悪い」
「本当に寝覚めが悪いか? 俺の葬式で祝杯をあげそうに見える」
 チャールズはその言葉を否定せず、どこかで庭いじりをしているはずのジョーを探すためにポーチを立ち去った。
 この家はチャールズが工事の監督を行い、チャールズがインテリアを揃えた家だった。やっと足を踏み入れた夢の家が、針の筵であったことにうんざりしていた。
「あら」
 ローズガーデンで本を読んでいたアスタは、荒々しい足取りでいきなり現れたチャールズを見て声を出した。「親ガモを探してるの?」
「ええ、まともに俺の話を聞いてくれるのは彼だけなので」それでは言い足りず、チャールズは皮肉を付け加えた。「あなたには感謝していただけると嬉しいんですが。フランクの代わりに、俺が家の維持費を払います」
 アスタは本から顔をあげ、物悲しそうな目でチャールズを見つめた。
「フランクを惨めにさせるのはやめてちょうだい」
「言いがかりです」
「お金のことだけじゃないわ。使用人に、フランクの言う事を聞かないように言いつけたでしょう」
「なんのことだか」

 チャールズがしらばっくれると、アスタは「嘘つき」とチャールズを睨め付けたので、チャールズはアスタと交戦するために腕を組んだ。嫌なことというのは続くものだ。
「あなたが頑なに使用人としか呼ばない彼らとは、俺があなたたちに追い出されてた間に、ボザールビルで6年間いっしょにいたんです。なぜかフランクはその間、めったにアトリエに顔を出さなかった──仕事をしてなかったからかもしれませんが。彼らが、俺とフランクとどちらの肩を持つと思いますか」
「あなたも彼らも、使用人としてのプロ意識に欠けている」
「だとしたら、どうするんです? あの少年の解雇はできませんよ、彼の雇用主は俺たちだ」
「〈俺たち〉? 金を出しているのはジョーでしょう」
 チャールズは、少し笑いを堪えた。フランクもアスタも全く同じ言葉でチャールズの自尊心を傷つける。
「本当にそう思っているなら、ジョーに泣きつけばいい。そうしないのは、ジョーに泣きついたところで、けっきょく彼は俺の言いなりだってわかっているからじゃないですか」
「これは復讐なの?」

 アスタは唐突に疑念を呈した。チャールズはその言葉にふいをつかれ、首をかしげた。
「なんの話です」
「フランクがまだ子供のあなたに手を出したから──その復讐なの?」
 考えたことがなかった言葉に、チャールズはたじろいだ。子供と言われるほど自分が子供だった覚えはない。しかしながら、改めて考えると、17歳という年はひどく幼く思われた。モデルの中にも同じ年の子がいる──その子供が大人に連れ込まれていくところを想像してしまい、チャールズは少し目を瞑った。
 しかし、年齢を詐称したのは自分だ。19歳と名乗った。フランクを責めるのは間違っていると、理解している。
 少なくとも、理性では。
「いや、違います──わからない、そうかもしれません」
「そう」
 アスタは一気に疲れてみえた。初めて会ったあの時から、もう既に十年近くが経つことに、チャールズは今更ながら気が付いた。
「俺は、あなたのことは嫌ってませんよ」チャールズは呟いた。「今までジョーの面倒を見てくれていた」
「私も、あなたのことは嫌ってないわ。ジョーが幸せそうだもの」

 1927年4月にアメリカが参戦してすぐ、ジョーは水軍のポスター画家として雇われた。上司となった海軍少佐はヘンリー・ロイターダールという名前だったが、元々ジョーの知り合いだった──お互いにソサイエティ・オブ・イラストレーターの会員だったのだ! ヘンリー・ロイターダールは従軍イラストレーターだった。座長のチャールズ・ダナ・ギブソンとロイターダールは、ランチ・ミーティングの場では慇懃無礼に互いへの敬意を示していたが、これほど画風が違う2人が一つの目的──つまり、アメリカの勝利──に向かって筆を奮っているというのは不思議な感じがした。
 そしてすぐ、水軍以外の政府機関もポスター画家を使うようになった。フランクもすぐに、水兵を多く描くこととなった。ジョーの画家の知り合いの多くもそうだった。
 そのうちの一人であるコールズ・フィリプスは、5月半ばにジョーのアトリエに尋ねてきた。
「ちょうどそこで彼の描いたポストの表紙を見かけてね。近況を聞きにきたんだ」
 サイは傘を畳みながら弾む声でそう言った。
 ジョーは、アトリエの寝室のベッドに裸で寝腐れていたため、チャールズはアトリエに自分しかいないふりをする羽目になった。
 ただでさえアトリエはロマンスに最適な環境とは言えないのに、さらに彼氏の友人や家族が次から次へと愛の巣に押しかけてくるとなると、もうチャールズには恋愛にロマンチックさを期待しようという気持ちはかけらも残っていなかった。
 ここまで来た客を追い返すわけにもいかず、中に通すと、サイは描きかけのカンバスを見て「素晴らしい」と微笑んだ。
「あなたも最近は似たようなものを描いているのでは?」
「いいや、男性を描くのが苦手だから、節電のポスターとかばかりだ。僕はひどい近眼だから、戦場では役立たずで、アメリカに貢献できる貴重な機会だと思って頑張っているけれど」
 サイは義務のようにそう口にすると、すぐに今育てている鳩について語り出した。政府に拠出するために伝書鳩を育て始めたものの、レース鳩と育て方が違い難儀しているらしい。どうやら、こちらが今回の本題のようだった。
 鳥類への愛が、ジョーのお気に入りの後輩画家としての地位を確かにしているのだ、とチャールズは最近仮説を立てるようになっていた。
 鳩の餌、そして鳩を描く難しさについてひとしきり語り終えたあと、サイは「フランクは?」と、今思い出したようなそぶりで聞いた。
「相変わらずです。仕事を受けては締め切りを破り、酒に溺れ──」
「そんな厳しく言うものじゃないよ。ジョーだって、いつも納期ぎりぎりに提出している」
 サイの言葉は事実で、濡れたカンバスを送ることも多々あったため、チャールズは拗ねた表情をした。サイは水彩画家だから、油彩を描くジョーのスケジュールを真に理解はできないのだろう。
「それは彼が完璧主義者で、優秀な画家だからです」
「チャールズ、君は優秀だから分からないかもしれないが、仕事ができることだけが人の価値の全てじゃないんだよ」
 サイはまるで子供に言い聞かせるような口調だった。6歳年上なだけなのに、とチャールズは反抗的な気持ちでサイを見た。
「たとえば──僕はほとんど独学で絵を学んだ。それをフランクは尊敬してくれて、だから僕の絵の陰影が下手でも何も言わない」
「あなたの絵は美しいですよ」
「ありがとう。でもジョーにアドバイスを求めた時は、ひどい言葉をかけられた。彼は絵について歯に衣着せぬタイプだからね。つまり、君が完璧と崇めるジョーよりも、フランクの方が好ましく思えることだって、外から見ると沢山あるってことだ」
「そうでしょうか」
「君がジョー贔屓なのは、愛してるからだろう」
 サイが、ただ事実を話している口調だったので、チャールズは否定するのが遅れた。しかし、サイはチャールズの反応を必要とはしていないようだった。
「フランクは、一人で芸術の道を極めたかったとこぼしていた。いっそアドルフと一緒にガラス工芸の道に進めれば良かった、とね。ジョーの影に隠れるのも、商業作家としてジョーと同じレベルを求められるのも、彼には酷なんだろう」
「だから、俺に辛く当たってくるのを我慢しろって?」
 サイは冗談めかして、寝室への扉を片手で示してみせた。
「世界一の画家が恋人なんだから、厄介な親類くらい我慢しろよ」
 チャールズは、今回ばかりはサイの言葉を強く否定した。この友人に本当のことをてらいなく話せたら、どんなに嬉しいだろうと思いながら。

Ch. 7: ゼルダ・フィッツジェラルド

「あなた、例の広告の男性に似てるのね」彼女は無邪気に続けた。「わかるでしょう、あの広告の男性よ」

──『華麗なるギャツビー』(F.S.フィッツジェラルド著)

 女優テキサス・ガイナンがチャールズとジョーに出会ったのは、1907年、中秋の名月を眺めてワシントンスクエアのベンチに座っていた時だった。テキサス・ガイナンはギブソンガールズのような魅力的な顔立ちと、遠くまで響く滑らかな声の持ち主だった。
 これ以上の出会いはない。月光ムーンシャイン白光ホワイトライトニングは密造酒の隠語であるし、月に照らされた真夜中のワシントンスクエアなんて、最高に運命的でロマンチックだからだ。
 

 1919年の1月にテキサス・ガイナンはまた現れ、ジョーは馴染みの酒場でガイナンに酒を奢った。ガイナンはチャールズの肩に腕を絡めながら、来年施行される禁酒法の話をした。
「あたしは酒飲まないけど、あたしが男たちに飲ませてきた酒を合わせたら地中海より多いぜ。こちとら商売なのに、酒を売るなって無理だろ」
 チャールズは目を細めた。エネルギッシュでパワフルで予想がつかない、ガイナンは友人としては最高の人間だった。
「じゃあどうするんだ?」
「あたし、目をつけてる建物があるの。東54丁目に。そこで酒を売るんだよ」
「酒を売ったらダメになるって話をさっきしたばかりだろ。このシンプルな法律のどこが理解できなかったんだ?」
「誰がお上のことなんて気にするんだい」
 チャールズは呆れたように口を開けた。ガイナンは大ボラを吹く癖があった──彼女が口にすると、どんなに大仰な嘘でも、惨めな感じはしなかったが。しかしガイナンは美しい唇をぐっとつぼめて、拗ねる仕草をした。
「あたしは本気だよ、やになっちゃうな。そうだ、その建屋には他にも空き部屋があるから、あんたらも借りれば良いよ。仕事部屋として。酒、サービスするよ」
「2年前にアトリエは引き払って、今は家で作業してるんだ。無駄遣いになってしまうよ」ジョーはガイナンをそう諭した。
「財布を空にする男気も無いなら、とっととくたばりな!」
「この懸命な女性の言う通りだ」

 チャールズはクスクスと笑った。ジョーは、肩を寄せあって笑うガイナンとチャールズを見て、敗北のため息をついた。

 そして、チャールズとジョーは東54丁目に部屋を借りた。テキサス・ガイナンもすぐに追って違法酒場〈300クラブ〉を開いた。酒場と聞くと大仰だが、実情は地下室めいた小さなフラットだ。それだのに、まだ夕暮れ時にもかかわらず、ひっきりなしに人が吸い込まれていく。
「一緒に偵察に行きませんか」
「君一人で行っておいで」
 チャールズの提案を、ジョーは貨物用エレベーターから酒を引き出しながら断った。──300クラブは最上階にも部屋を借りていた。地下から上に貨物用エレベーターで酒を運ぶ際に、アトリエで一度止まるようにガイナンが調整してくれているのだった。
 ジョーに振られたチャールズは、1人でガイナンの店に入った。入るときに12ドルも取られたのは予想外だったが──いいモデルが2人も雇える価格だ。
 テキサス・ガイナンの店は、まるで無人島に持っていかれたスケッチブックの最後のページのようだった。人が折り重なるように混み合っていて、全ての人間が違う表情をしている。ガイナンは多くの女性を連れてきて、店の中で踊らせていた。人の間が近いから、どうしても踊り子と観客が近くなる。それが評判になり、また客を呼ぶようだった。
 店に入ったものの知り合いがおらず、ガイナンはゲストと話すのに忙しそうだ。モデル仲間を誘えば良かった、とチャールズは口惜しんだ。なんとはなしにバウンサーの隣に立ち尽くして踊り子を眺めていると、どこかで見たことのある巻毛の女性が、チャールズを見上げて感嘆の声を上げた。
「あなた、あの人に似てるわ! ほら、あの広告の──」
「ああ、確かに」
 女性の傍の男性は、女性の言葉に賛成した。透き通るような金髪で、少し離れた両目は灰色がかった美しい色だった。彼の顔はチャールズでも知っていた。ということは、この2人はフィッツジェラルド夫妻だ。『楽園のこちら側』と、サタデー・イブニング・ポストに載っていたいくつかの短編の作者の。
 彼の著作の話題が出なければ良いのだが、と心の内に願う。『天国のこちら側』には、アローカラーに夢中になる13歳の少女が登場するらしく、色々な人に薦められるのだが、チャールズはあの手の小説に楽しみを見出せないのだ。男と女が目線を合わせて数秒後に恋に落ちるような小説など、ホラーとしか思えない。ジョーにふさわしい友人──アシスタントという言葉はまだ大仰に感じる──になるためにも、流行を学びたいと思ってはいるのだが。
「よくお分かりで、俺は〈あの広告〉のモデルなんです」
「いつかあなたの絵を表紙に使いたいものです。申し遅れました、私はスコット・フィッツジェラルドで、こちらが妻のゼルダ」
 スコットは礼儀正しく妻を指し示した。
「訛りがありますね。ご出身はどちらで?」
「カナダ、オンタリオです」
「へえ! それがまたどうして、絵描きのモデルに?」
「ジョー・ライエンデッカーの描く女性に惚れて、ここまで来たんです」
 スコットが、あからさまな嘘を聞いた人特有の礼儀正しい笑顔を見せたので、チャールズも対抗するために控えめな笑みを浮かべた。異性愛者を演じるには、余裕を持つのが一番重要だ。
「本当なんですよ」チャールズは焦りを見せないように気をつけた。「ロマンチックすぎて嘘みたいって、よく言われるんです」
「当ててみようか、実際に会ってみたら全然美人じゃなかったんだろう? イラストって、嘘だらけだしな」
 スコットはそう言って笑った。音楽に負けないように大声で話すせいで、少しぞんざいに聞こえた。ゼルダは滑らかな声で、そんなことより、と疑問を口にした。
「モデルとして生きるのってどんな感じなのか教えてちょうだい。私、よく女優向きって言われるのよ。きっと女優にはいつでもなれるわ。私の昔っからの友達のタルラー・バンクヘッドも女優になったの。でも、モデルも素敵ね」
 タイラー・バンクヘッド! 彼女の噂はチャールズもモデル仲間から聞いたことがあった。こちら側の人間で、同室の女性と寝たことがあるとの噂だ。
 ゼルダがそれを知っているのかと脳裏で考えつつ、「つまらないですよ」とチャールズは笑った。「あなたの旦那さんが正しい。あなたがどんなにきれいでも、そのまま美しく描いてもらえるとは限らない」
「でも、目の前にいるアローカラーマンは絵の通り、とおってもハンサムだわ」
「ありがとうございます。──どうやらご友人が向こうでお待ちのようですよ」

 チャールズは、遠くからこちらをみている金髪の女性を指し示した。
「あら、ドロシーじゃない!」ゼルダはそちらに手を振った。「実はタイラーの友人のドロシー・パーカーに誘われて来たんだけど、彼女とははぐれちゃってたの。よかったらご紹介しましょうか? ほんっとうに面白い子よ」
「いいえ、他にたくさんの人があなたたちとお話しするのを待っていることでしょうし」
「それなら、待たせるのも悪いね」スコットは嫌味なく別れの握手をした。
 そして、ゼルダとスコットは去っていった。チャールズはサウスサイドを飲みながら、完璧を絵にしたようなカップルの姿をなんとはなく目で追っていたが、隣に現れた黒髪の、コットンの襟をつけた風体の冴えない男がチャールズの肩を叩いた。
「何か聞いたのか?」
「はい?」
「さっきの2人から、なんか面白そうな話は聞けたのか?」
「失礼ですが、どなたですか?」
 チャールズは最大限失礼になるように、ぞんざいにそう聞いた。男は全く怯む様子もなく、名刺をチャールズに押し付けた。
「面白そうなネタがあったら教えてくれ。良い値を払う」
 ウォルター・ウィンチェルと書かれた名刺をチャールズが眺めていると、ウォルターは声を顰めた。
「さっきの話だが、写真も嘘をつける。イラストと違って、誰もそれを疑わないだけでね」
 ウォルターはその言葉を残して去っていった。チャールズは名刺をちぎって捨て、クラブを後にした。フィッツジェラルド夫妻は妙なカップルだったし、最後に話しかけてきたのも妙な男だった。全体的に、妙な場所だった。しかしながら、お互いに認められているような安心感もあった。
 チャールズは、300クラブを気に入ったのだ。

 チャールズはガイナンの店に何度も戻った。カンバスを貼り終えた後、絵を届け終えた後、ジョーと喧嘩をした後。夕刻でも真夜中でも、誰かしらがチャールズを迎えてくれた。
 入場に金を取られるせいか、店の人間は今を最大限に楽しもうと喧しい。その中で酒を飲みながら──密造酒の臭みを消すためにジュースが混ぜてある──なんとはなく踊り子を見つめていると、時間が溶けていくような気がするのが気に入っていた。
 その日チャールズが扉をくぐったのは夜の8時だった。店に入ってコートを脱いでいると、「やあ、ビーチさん! 昨日はどうも」背後から声がする。
 声に振り向くと、20歳前後のハンサムな男性がカウンターに座っていた。
 チャールズは脳内の記憶を探って、この男が昨日初めて雇った絵画モデルであることを思い出した。確かビリー・ヘインズだ。
 男が隣の椅子を叩くので、チャールズは人の間をすり抜けて男に近づき、隣の椅子に腰かけた。男はウェイターにコープスリバイバーを頼むと、チャールズに向きなおった。
「あなたとは話してみたかったんです。昨日帰った後に、ニール・ハミルトンが、あなたが元祖のアローカラーマンだって教えてくれて」
「実際に会ってがっかりした?」チャールズはおどけて見せた。
「イラストよりもずっとハンサムで驚きました」ビリーは笑った。ビリーは深い声をしていたので、この男だったら舞台俳優になれるかもな、とチャールズは考えた。
 モデルの噂話をしているとコープスリバイバーが届いたので、2人はこの強い酒のグラスを傾けた。香水の香りとあたたかで息苦しい空気で包まれた部屋は賑やかで、すこし黙り込んだくらいでは気まずい空気にはならない。
「こういう場所にはよく来るのか?」と、曲にかき消されないようにチャールズは声を張った。
「いいえ。あなたにだから教えますが、俺はボーイフレンドと住んでるんです。そういう仲間とはよく、グリニッジ・ヴァレッジのパーティーに行くことが多いですね」

 ビリーはそれが何でもないことのように、こちらも声を張って応えたので、チャールズは呆気にとられてビリーを見つめた。
 チャールズは最初幻聴を疑い、その次にビリーの頭を疑った。もちろんチャールズもモデル連中に〈そういう〉人間がいることは勘づいていたし、そういった話をしたこともあった。しかしそれをあっけらかんと口に出さない慎重さを持ち合わせてもいたため、ビリーの言葉は衝撃的だった。
「それは‥‥誰でも入れるのか?」
「あなたが来たかったら、入れてあげますよ」
「どんな場所なんだ」
「ここと殆ど同じです。ただ、あの子たち―」ビリーは茶目っ気のある動作で、羽のついた服を着た踊り子たちを片手で指し示した。「―は、みんな男になりますけど」
「安全なのか?」
「こうやって違法酒場で密造酒を飲んでいるのに、変なこと気にしますね」
 チャールズはしばらく想像力を逞しくしたが、そんな場所があることが信じられなかった。大学に通うような子供が数人いるだけのクラブだったりしないだろうか?
 それでも、自分のような立場の人間が集まっている場所という言葉に、惹かれるものがあるのは確かだった。
「すこし考えさせてくれ」とチャールズは言った。その声は動揺と酔いで裏返っていたが、ビリーは礼儀正しくそれに言及せず、ただチャールズの持っているグラスを奪って代わりに飲み干した。

 チャールズが屋敷に戻ったのは真夜中だったが、まだ屋敷内に灯りが灯っていたのでジョーが寝ていないことがわかった。ポーティコのドアを抜けてエントランスフロアに入ると、「おかえり」と声をかけられる。
「戻りました」
「今日はどうだった?」とジョーが言うので、ジョーがチャールズを待って今まで起きていたことがわかり、申し訳ない気分になる。
「いつも通りです。ああ、ビリーがいました」
「ビリー?」
「昨日来たモデルの、ウィリアム・ビリー・ヘインズです」
「ああ。あの黒髪でインテリアに詳しい」
「はい」チャールズはコートと帽子を椅子に投げ出した。明日、早起きして片付ければ良い。「彼によると、グリニッジ・ヴァレッジのパーティーには俺たちみたいな人間がたくさんいるらしいんです。──よければ一緒に行きませんか?」
「だめだ」
 チャールズの提案に、ジョーは首を振った。ジョーはそもそも内気でパーティーをそこまで好まないので、これは意外なことではなかった。しかし、チャールズは食い下がった。ビリーの衒いのない声が脳内にまだ響いていた──僕はボーイフレンドと住んでいるんです。チャールズだってボーイフレンドと長年住んでいるが、そうと口に出したことは一度もない。
「どうして仲間とつるむのをそんなに嫌がるんです。もう時代は20年代ですよ。大陸だと最近は第3の性と呼ばれていて、かつてほど当たりが厳しいわけじゃないらしい」
「でも合衆国だと相変わらず〈精神病患者かつ変質者〉と呼ばれる。現実を見ろよ、逮捕されたらどうする?」
「あなたが嫌なら、俺一人で行くから大丈夫ですよ」
「それもダメだ! そのビリーとやらみたいな連中と付き合うなら、ガイナンの店に行くのもやめなさい」
 ジョーは声を張り上げた。これは予想外だったので、チャールズはシャツを脱ぐ手を止め、ジョーの顔をまじまじと見つめた。ランプの光に照らされた表情は冷ややかで、チャールズは苛立ちを覚えた。
「じゃあ、俺にどこにも行かずに閉じこもっていろって言うんですか? あなたと2人きりで生きていけと?」
 ジョーはここで初めて、目の前の男が自分よりも12歳も若いのだという現実に初めて気づいたような顔をした。
 20歳のジョーがパリでそれなりに性を探索していたころ、チャールズはオンタリオで鶏を追いかける8歳の少年だった。チャールズは10代でロンドンを経験したが、どこでも今を生きるのに必死で、恋愛どころか道楽に耽ることもできなかった。
 チャールズはもう33歳だったが、仲間と話したことが殆どなかった。
 ジョーは眉間を揉んで、声を和らげた。
「そうとは言ってない。――これが通常のパーティーだったら僕も反対してない。でも、警察がいつ乗り込んでくるかわからない場所に君を行かせられない。君がいないと僕はダメなんだ。わかるだろう?」
 チャールズは、ためらいながらも頷いた。それを見て、ジョーは譲歩することに決めたらしい。
「人と関わりたかったら屋敷を使ってくれ。〈普通〉の人間だったらどんな人を招いても良い。だから、危ないことはするな」
「わかりました」
「300クラブの近くにアトリエを移したことで、勘違いさせてしまったかもしれないね」ジョーは子供を宥めるような声を出したが、チャールズの耳には叱責として響いた。「地下の人たちと僕たちは違うんだ。この世界は僕たちのためにデザインされてなくて、下手を打つとすぐに殺されてしまう。わかるかな」
「はい」

 チャールズは惨めに返事をした。
「例えば、20年後にはマシになっているかもしれない。50年後には表で手を繋げるようになっているかも。そうしたら一緒にパーティーに出かけよう」
 しかし、世界は人が望むよりもずっとゆっくりと変化している。

 マウントトムロードには、完璧なパーティーを開くための全てが揃っていた。なので、チャールズは自分でパーティーを開くことにすぐに楽しみを見出した。
 ジョーは、チャールズがハメを外すのを見逃すことに決めたようだが、つまらない年寄りのような忠告をするのは忘れなかった。曰く、「自分を見失わないように」
 ご忠告感謝します、とは言わなかった。忠告としても最悪の部類だ。まだしも、アスタが苦虫を噛み潰したような顔で絞り出した「あなたの〈仲間〉は連れてこないように」の方が、具体性の面では上だった。
 パーティーには連日多くの人が来た。ロシアの作家、多くの俳優──ジョン・ギルバート、グロリア・スワン、メイ・ウェスト。一度などジョン・シンガー・サージェントが現れ、その時は肖像画に関するあらゆる話を聞き出そうと興奮したジョーを宥めるのが大変だった。誰も招待状を持っておらず、ただ人が人を呼び、噂が噂を呼ぶようだった。
 なので、見覚えのある巻毛の女性がある日突然目の前に現れた時も、チャールズは驚かなかった。
「お久しぶりね」ゼルダは美しい巻毛を揺らした。
「覚えていらっしゃいましたか」
「あちこちであなたのポスターを見るんですもの」
「嬉しいですね。今時の娘さんは、ポスターの男なんかよりもルドルフ・ヴァレンティノに夢中なんだと思ってました」
「ルドルフには一度会ったことがあるけど、つまらない男だったわ。ねえ、よければ少しお話しない?」
 ゼルダはスライスオレンジを手に取り、優雅な動作で口に放り込んだ。まるで自分がこの家の主人だという態度だった。
 チャールズはゼルダを2階の室内バルコニーに案内し、2人はローテーブルを挟んで向かい合うように座った。ゼルダはコープスリバイバーのグラスを手に持っていた。
「──少し、色んな人にあなたのことを聞いてみたの。評判が良くないのね」
「そうですか?」
 チャールズは片眉を上げて、いかにも意外といったコミカルな動作をした。ゼルダはそれを見て吹き出した。
「まあ。私ったら親切で教えてあげようとしたんだけど、もちろんあなたは知ってるわよね」
「まあ、ジョーの近くにいると、やっかまれることは多いです」
「同じ立場だから分かるわ。私も面と向かって酷いことを言われるの。スコッティのためにならないって。でもみんながほめているスコットの文章って、私を写し取ったものなのよ。私の日記、私の言葉、私のしぐさ」
「どうして俺にその話を?」
「あなたのことかわいそうだと思ったから、それを伝えたくて」ゼルダの表情は幼く、悪い目論みがあるわけではなさそうだった。「つまり、私はタイラー・バンクヘッドの友人で、いろんな噂を聞くの」
 その言葉が暗喩している事実は一つしかなかった。しかしながら、チャールズが口止めを兼ねた尋問を始める前に、スコットがバルコニーに現れた。
「さっきから偉大なるライエンデッカーを探しているんだが、どこにもいないようだ。家主がいない今、君は実質上、屋敷の主人というわけか」スコットはチャールズの肩を気安く叩いた。酔っているようだった。
 ゼルダはブルネットの巻毛を揺らして立ち上がり、スコットの腕にしがみ付いて「ねえ」と囁いた。「小説みたいじゃない? 夜な夜な開かれる豪邸でのパーティー、誰も主人の姿は知らない」
「ゼルダ、君が小説家になった方がいい」

 スコットはゼルダの目にかかった巻毛を払ってやりながら、ゼルダをからかった。
「お楽しみですか?」
 チャールズはスコットに握手の手を差し出した。質問しておきながら、スコットが今を楽しんでいるようには思えなかった。
「ああ、素晴らしい屋敷だ。絵を描くだけでこんなものが手に入るなんて、信じられないくらい。ライエンデッカー氏は、元々資産家だったりしたのかな」
「いいえ」
「へえ! 僕は精一杯背伸びをしてこの体たらくだが、君は数ドルで買えるそのアローカラーをつけただけで富を具現化したような見た目をしている。でも、僕たちの根っこは同じってことか──馬の乗り方も知らない成り上がりだ」
「面白いですね」
 チャールズは言葉少なに答えた。この場から立ち去りたい気持ちと、スコットが何を言い出すのか聞きたい気持ちが半々だった。
「あまり見ない料理が多いね」スコットは話を変えた。
「フィリピン人の料理人とボーイを雇ってるんです」
「匂わないのか?」
 チャールズは完全に虚をつかれ、首をかしげた。
「はい?」
「彼らは独特のにおいがするだろう?」
 スコットは、彼ら、と言う時に両手で曖昧なジェスチャーをした。まるで、自分は世界一繊細だから明確な言葉を避けているのだ、というように。
「気づきませんでした」

 チャールズは慎重にスコットの顔を観察した。目の前の男への尊敬の気持ちを、すこし失いつつあった。
「そうか、僕は鼻がするどい方なのかもしれない。いま手をかけている『美しく呪われた人々』でも奴らのにおいについて書いているんだけれどね。小説家としてやっていくためには、些細なことへの観察力が重要になってくるんだ」
「まあ、そんな話で退屈させないの。この人の悪い癖なのよ」ゼルダは少女のように弾む声でスコットを睨め付けた。その瞳はいたずらっぽくも懸命に輝いていた。ゼルダがチャールズの不快を感じ取ったのは明らかだった。
「それより、この家のツアーをしてちょうだい。さっき2階の裏庭に面した窓から、ロングアイランド湾の光が見えたのよ!」
「おそらく、船の光でしょう」チャールズは補足した。
「きっとそうね。緑色の光。私、あんなに美しいものを見たのは初めてだったわ!」
 チャールズはその時、スコットがゼルダを刺すような目で見ていることに気づいた――彼女の一挙一動を覚えるように。ゼルダの言っていたことはあながち間違いでは無いのかもしれない、とチャールズは思った。スコット・フィッツジェラルドの小説は、ゼルダを映しとっただけのものなのかも。

 一時間後、チャールズがフィッツジェラルド夫妻に再び会ったとき、カップルのどちらもチャールズが秘蔵していた密造酒で泥酔していて、周りを認識していなかった。サラ・マーフィーに囃されたゼルダは、ローズガーデンの噴水に飛び込みさえした──こんなに肌寒いのに!
 その態度は、愚かで若く煌びやかで、命を燃やしているようだった。
 チャールズは、自分がひどく老けたような気がして、急にジョーに会いたくなった。
 かつてはアローカラーマンとしてそのままの姿をポスターに描かれてきたが、最近、画布に描かれたチャールズの姿は、チャールズよりも少し若く調整されているようだった。最近雇われたモデルのニール・ハミルトンなんて、チャールズよりもひとまわりも年下なのだ!
 アローカラーの新作が発表された時のために描き貯められた、素描のカンバスたちを見るたびに焦るものがある。カンバスにはチャールズ以外の若い男性の顔が並ぶ──まるでドリアン・グレイのように空虚で完璧な生首たちが、襟を描き込まれるのを待っている。
「ここにいたんですね」
 ジョーはいつもの通り、庭のガゼボ内のベンチに座りながら、自分の建てた邸宅内に蔓延る人混みを眺めていた。チャールズはその人影に近づいて、隣に座り込んだ。
 チャールズは、ジョーの横顔をじっと見つめた。ジョーは背が低いが、魅力的な人物だった。特に、新しく仕立てた二連ボタンのブレザーを着て丹念に髪を撫で付けた今の姿は、一分の隙もないスラッカーに見えた。
 ただし、爪は絵の具で汚れていた。毎日浴槽に浸かって洗っているのだが、次の日には汚れてしまうのだ。使っている色は暖色が多いはずだが、色んな色が混ざり合ってどこか苔むしたようにも見えた。それに、指先はテレピン油で荒れていた。まさしく職人の手だった。
「指、爪の間まで洗うのを億劫がってるでしょう」チャールズは言った。「明日は俺が一緒に浴槽に入ります」
「必要ないよ」
「色んな方と握手するのに?」
「画家の手が絵具まみれでも誰も気にしない。炭鉱夫の手が黒いのに文句を言うのはバカだけだ」
「服装も髪型もきちんとなさっているのに、変なところでずぼらなんですから」
 しかしチャールズと寝ていた頃はジョーの手もきれいに保たれていたのだ。あれは自分のためだったのだなと思い、その考えが不相応な気がしてチャールズは少し身じろぎする。
「ずぼら? 昔の君は初々しくてとても可愛かったんだが。いつの間にかずけずけとものを言うようになったね」
「可愛くない俺は嫌いですか」

 チャールズは疑念を投げつけた。
「おや、酔ったのかな」
 そうかもしれない、とチャールズは苦く思った。密造酒の臭みを紛らわせるためのカクテルはどれも口当たりがよく、すぐに自分が飲んでいる量がわからなくなる。
「ゼルダ・フィッツジェラルドと話してて思ったんです。ゼルダも俺も、あなた方に描き取られるだけだ。ゼルダは賢明で美しいが、俺は描きとる価値も無くなってきているでしょう」
「それ以上の働きをしてくれてる」
「あなたの仲間はみな、俺のことが嫌いだし」
「母方のいとこが来たことがあっただろう?」
「ええ、サリヴァンとかいう」
「君のことをほめていた」
 滅多に顔を出さない親類に好かれても、なんの意味もない。チャールズが欲しいのは、立場の安定だった。今日のような会で、自分はジョーの恋人だと言えて、それをみんなが認めてくれたらどんなに良いだろう。そしたらチャールズも、いつジョーに捨てられるかわからない不安──どんなにジョーの仕事を支えても消えない不安──を殺すことができるのに。
「僕が君を気に入ってる理由は、君が美しいからでも、便利だからでもないよ。もちろん、それらは君を愛するのをとても簡単にしてくれるけれど」
「じゃあ、なんなんです?」
「たとえば──。僕を見つけたときに、君が笑顔になるから」
 ジョーの言葉が理解できず、チャールズは首を傾げた。
「どういうことですか」
「たとえば、店の棚の間でふっとはぐれて、また棚の向こうに移動してお互いを見つけたとき、君は絶対に笑顔になるんだ」
「そうですか?」
「ああ。あとは、こうやって隣に座って庭を眺めてくれるところ」
「そんなこと?」
 ジョーは頷き、再び沈黙が訪れた。ジョーの外套が夜風に当たってはためいた。パーティーの喧騒は、波のように押し寄せては去っていった。しばらくして、再びジョーが口を開いた。
「しかし、テキサス・ガイナンといい、ゼルダ・フィッツジェラルドといい、君は美人なフラッパーに好かれがちだね。ああいう女性には、自分に色目を使わない色男が好ましいんだろうか」
 チャールズは、ジョーの明らかな話題逸らしとおべっかに苦笑した。不器用なところも好ましいと思ってしまうのは、惚れた弱みというものだろう。
「俺も、ああいう人たちは好きですよ。賢くて、命を燃やしているようで、俺に色目を使わない」
「おや、君に色目を使ってる僕のことは嫌い?」
「そんなことはありません──踊りますか?」
 チャールズは立ち上がり、ジョーの前に立った。
 野外であり、すぐそこには大勢の知らない人間がいる。ジョーにはすげなく断られるかと思ったが、ジョーは周りに人がいないか慎重に確かめてから、杖を傍に置いて、チャールズの手を取って立ち上がり。チャールズにキスをした。
 今はそれだけで十分だった。

Ch. 8: ウォルター・ウィンチェル

彼はお気に入りの美術品を訊いてきたのだけど、あなたですって言えなかったの

──『The Art Teacher』(Rufus Wainwrightの曲)

 さて、ジョーが300クラブの階上にアトリエを移したことはもう話した。そこはロビーのような広い空間に、制服を着た執事まで控えているような代物だったが、フランクはマウント・トム・ロードの邸宅の、ジョーと共同のアトリエを利用しつづけた。
「フランクにも、自分一人で仕事に集中できるスペースが必要な気がするんだよ」
 ジョーはアスタにそう相談した。
「フランクを、フランクの脳みそと2人きりにするのは危険よ」アスタはため息をついた。「今は機嫌よく屋敷のアトリエを使ってるんだから、下手なことをせず、私に任せておいて」
 しかし、ジョーはアスタには任せておけなかった。フランク専属のアトリエとして、屋敷に増築を加えることを1920年に独断すると、さっさと建築家に連絡をした。
 もちろんフランクとアスタは、この決断の背後ではチャールズが糸を引いているものだと決めつけていた。ジョーが運転手を雇い、車を買い、執事を雇い、パーティーを開くたび、チャールズがねだったからだと責められるのだ。──確かにパーティーはチャールズがねだったのだが、しかし最終的にゴーサインを出したのはジョーだ。そのことで責を受けるのは不本意だった。
 チャールズは、アスタに苦言を向けられて萎縮するような可愛らしい性格はしていない。渋い顔をする2人の鼻先で豪勢なガラを開くのは楽しかったが、その分日中のマウント・トム・ロードの居心地は悪くなっていった。
 逃げ出したチャールズが駆け込むのは、アトリエかガイナンの300クラブだった。
 その日もチャールズは、テキサス・ガイナン、ジョージ・ラフトとともにカウンターに腰掛け、踊り子志望の女の子たちがオーディションとして並んで踊っているのを眺めていた。ガイナンの店はジーグフェルド・フォリーズなどスター産業の関係者が訪れるので、行き場のない女の子たちが一縷の望みをかけて戸を叩くのだ。
 6月に憲法修正弟19条が認可されたとき、アスタは女性全体の生活が急激に変わるようなことを言っていた。しかしその希望が実現するにはまだ多くの時間がかかりそうだな、とチャールズは考えた。 
「ウォルターが嗅ぎまわっているらしいから、先手を打ったほうがいいよ」と、ガイナンは片手で南京錠型のネックレスを触りつつ、手狭なステージを眺めた。ひときわ綺麗な赤毛の女の子が、ひどい動きをして転けたところだった。
「ウォルター?」
「ウォルター・ウィンチェル。ブルドッグみたいに悪質なゴシップコラムニストで、昨日こんな記事を書いていた」ガイナンは、Vaudeville Newsをカウンターに置いた。その貧相な装丁を、チャールズは鼻で笑った。「まともな雑誌は読まないんですか」
「うるさいね、あんたの飼い主はポストなんて田舎臭い雑誌の表紙を描いてるくせに」
「大衆向けの、と言うんです」
「ともかく、このページを読んで」
 そこに書かれていたのは、あるパーティーでの出来事のようで、序文にはこう書かれていた。
──才色兼備と誉れ高きフラッパーに囲まれつつも目も向けず邸宅の裏庭にて他の紳士と踊り睦言を交わせしは特筆すべき恥であらふ。
「これ、あんたのことでしょう」
 ガイナンがチャールズの顔を覗き込んだおかげで、さきほどの赤毛の女の子は滑稽な振り付けを見られずに済んだ。チャールズは記事から目を離さず、「ああ」と答えた。
「本当にあんたなの? いかれてるの?」
「……でも、名前が書かれてない。誰だか暗闇でわからなかったのかもしれません」
 ガイナンは、同情するような顔になった。チャールズはそれが気に食わなかった。
「ブラインドアイテムって分かる?」
「いいや」
「いわば匿名記事のこと。何某氏が某嬢とキスをしたって匿名で書き立てて、読者はどちらが悪いとか議論して遊ぶの。これはその一つ。──でも、脅しに使われることもある」
「なんでわかるんです」
「あたしも書かれたことがあるから。その記者は面の皮厚くも記事を私に持ってきて、脅しに使って見せたのよ。次の記事では名前を出すこともできるって」
 ガイナンは、黙り込んでしまったチャールズを見てため息をついた。
「ことの重大さがわかってきた? こんなにお馬鹿で大丈夫かしら、せめて顔が良くて良かったわね」
「うるさいな、大丈夫ですよ」チャールズは笑ってみせた。
 いつの間にかピアノの曲はとまり、女の子たちは期待した目でガイナンを見つめていた。あの赤毛の踊り子は受かるだろうな、とチャールズは、目の前の問題から逃げるように考えた。少なくともシガレット・ガールにはなれるだろう。特に取り柄や身寄りがなくても、顔がよければ選ばれる。いつかはチャールズのように、金持ちの男性の愛人に落ち着くことになるのだろう。運が良ければ結婚できるかもしれない。
 かわいそうに、とチャールズは思った。

 クレバー・ハンスという馬がいる。この馬は蹄を地面に打ち付けるという方法で数を人間に伝えることができた。ハンスはこの能力により、複雑な計算問題が解け、文字も読め、有り体に言えば教養があるとされていた。少なくとも、飼い主はそう信じ込んでいた。
 しかしながら、その幻想は科学調査の前に破れることになる。馬は、単に質問者の反応を見て蹄を叩くのをやめていたのだった。
 1904にクレバー・ハンスについての記事をチャールズが読んだとき、チャールズはハンスを自身と比べてしまった。チャールズには教養がなかった。それでもパーティーを開けば教養人が集まる──相手の反応を見ながら、ネルソン・ダブルデイ『ポケット大学』や『エチケットの本』に基づいてそれに気の利いたコメントを返すと、チャールズ・ビーチにはオツムがあるという風評を流せた。それをことさら薄っぺらいことだとチャールズは考えなかった。
 ジョーと並び立つことに不安を覚えることが増えたチャールズにとって、この評判は少なからず支えになっていた。
 それが、ウォルターに怯えつつもパーティーを開き続けた理由だ。
 次のパーティーで、ウォルターは現れなかった。その次のパーティーにも現れなかった。もちろん、アトリエに訪ねてくることも、買い物中に声をかけられることもなかった。チャールズはゲストと談笑しながら、徐々に安心していった。ガイナンが心配しすぎたのだ。そうと決まれば、客が消費されるオレンジや、客が帰った後の掃除や、執事がきちんと仕事をしているかの確認など、他に心配するべきことはたくさんある。
 なので、雪の中開いた年越しパーティーにてウォルターに声をかけられたとき、チャールズは一瞬なんの話かわからなかった。
「一度挨拶したの、覚えてるか?」
 久しぶりにジョーが参加しているパーティーなのに、よりにもよってこの日に、とチャールズは内心慌てつつ、目の前の男を観察した。確かに見覚えのある男だった。
「場所を変えましょう」
 チャールズはそう言って踵を返した。後ろを男がついてきているかは確かめなかった──ついてきているに決まっている。ネズミをつけ狙う狐のように。
 料理人でごった返したキッチンを抜けて、裏手から外に出ると、チャールズは改めて男に対峙した。ウォルターは懐に手をやると、見覚えのある雑誌を取り出した。チャールズは呻き声を上げた。
「これを開いてみてほしいんだが……」
「その雑誌は知ってる。記事も読んだ。前口上はいいから、早く本題に入ってくれ」
 ウォルターは意外そうに片眉を上げると、素直に雑誌を引っ込めた。
「話が早くて助かるね。俺がどんな話をしようとしてるかも分かるか?」
「俺は今機嫌が悪いんだ。外は寒いし、もてなさなきゃならないゲストもいる。だから、持ってまわった話をするな」
 苛立った声を出したつもりなのに、語尾はどうしても震えた。外の寒さは刺すようで、風が吹くたびに耳たぶが痛かった。虚勢を見破ったのか、ウォルターは少し同情するようにチャールズを見やった。
「記事に名前を出す代わりに、してもらいたいことがある」
「金か?」
「まあ、金もだな。それだけじゃないが」
「いくらだ?」
「1500ドル」
 チャールズは怯んだ。ジョーがサタデー・イブニング・ポストの表紙一枚で受け取る金額とほぼ同額だったからだ。屋敷を建ててから6年しか経っておらず、貯蓄もそこまで貯まってはいなかった。
「俺はそんな金、持ってない」
「それならジョセフ・ライエンデッカーの方にお願いするよ」
「やめろ」チャールズは声を荒らげた。「もしこのことを彼の耳に入れてみろ、後悔することになる。俺は彼以外何も持ってないんだ──彼を奪うなら道連れにしてやる」
 ウォルターは動じず、「俺も妻子持ちなんでね。おまんまを稼がなきゃ」と宣った。
 チャールズとウォルターは、しばらくそのまま睨み合っていた。チャールズは、どうしてこんなことになったんだろう、と脳裏で考えた。数ヶ月前まで、最高の人生を送っていたはずだった。それなのに、今はヴィクトリア朝のメロドラマのようにチープな危機に陥ってしまっている。
「金は用意する」チャールズは言葉に威厳を込めたが、その声はうわずっていた。「でも、一回だけだ。それに、500ドルだけにしてくれ。十分だろう」
「1500ドル、用意できるだろう」
「俺はそんな金持ってない!」チャールズは叫び、その後目頭を抑えた。どうして良いのかわからなかった。「勘違いしないでくれ、俺は自分からあの人に金の無心をしたことはないんだ。それはできない。あの人に嫌われることはしたくない」
「俺がそれを信じると思うか?」
 チャールズは革靴に積もった雪を蹴飛ばした。チャールズはずっとジョーの近くにいたくて、それでずっと頑張ってきたのに、目の前でそれが崩れていくことが許せなかった。
 ウォルターはため息をついた。
「500ドルにプラスして、ほかのネタを探して来たら、勘弁してやる」
「俺は何も知らない」
「アローカラーマンはバカだったって記事を載せさせるつもりか? もっとマシなネタで頼むよ」
 チャールズは必死で脳の歯車を回転させた。
 教えてもその人を破滅させない、チャールズがソースだともバレないような話がないだろうか? 
「……ハワード・クリスティとナンシーの新しい家での暮らしを耳に挟んだことがある」
 ウォルターは少し考えるそぶりをした。
「クリスティガールズね。まあ、そのネタを聞かせてもらおう。それと、パーティーに今後も紛れ込ませてもらえるだけでいいさ。初回割引だ」
 ウォルターは、被っていない帽子のツバを持ち上げるような仕草をして、屋敷の中に戻ろうと踵を返した。
 チャールズは「待ってくれ」とそれを呼び止める。「どうして俺を狙ったんだ?」
 ウォルターは、本当の愚か者を見るように苛立たしさを含んだ目をした。その目線に、首の後ろがちくちくするような居心地の悪さを感じる。
「分かってないな。あんたは元祖アローカラーマンなんだよ。アメリカで君の影響を受けなかった人間はいない──俺を含めてね」
 ウォルターは自身の襟を示し、今度こそチャールズの目の前から消えた。

 チャールズはアトリエの明るい部屋の真ん中で、ソファに座っていた。ジョーはチャールズの隣に座って、チャールズの左手のスケッチをしていた。
「俺の手なんて見飽きたでしょう」
 チャールズはジョーに目をやった。ジョーはチャールズの手を見つめたまま、口元を緩めた。ジョーの黒髪には、どうしてか黄色の絵の具がついていて、どこかずぼらで幼く見えた。
「見飽きることはないさ。今日見る手は、昨日見る手と違う。生きている人間を描くんだから、写真じゃなくて生きている人間を見るべきだ」
「素晴らしい心がけです」
「面倒な性質だと、素直に言ってもらっても良いよ」
「その性質のおかげで俺が食べていけてるのに、腐すことなんてできませんよ」
 チャールズの言葉に、ジョーは苦笑した。
「本当は鏡を参考にできたら良いんだが、僕はこんな痩躯だからね」
 ジョーはスモックとシャツに包まれた腕を叩いてみせた。ジョーはハンサムだが小柄だった。それに右手にステッキを持っていて、片足を常に引きずっていた。髪はスリッカーらしく神経質そうに整えられていて、きちんとした身なりをしていたが、言葉にはどもりがあって内気だった。
 この人に絵の才能があってよかった、とチャールズは思った。ジョーが炭鉱夫に混じってトロッコを引いたり、煙突の中に潜ったりしているのを想像するだけで、チャールズの胸は痛んだ。
 ガイナンの言葉を理解したのは、その瞬間だった。
 自分のせいでジョーが絵を描けなくなったら?
 そのせいで、ジョーに嫌われたら?
 もしかしたら、俺は本当に馬鹿なのかもしれない。
「あの……」チャールズは咄嗟にジョーに記事のことを打ち明けようとして、躊躇し、やはり口をつぐむことにした。その代わり、「パーティーの開催をやめます」と宣言した。
「何かあったのかな」ジョーは目線を上げ、心配そうにチャールズの顔を見つめた。
「いいえ。ただ、もうつかれたんです」
 チャールズは少しソファにもたれ、ジョーの肩に頭を置いた。口にしたことで、自分が実際ひどく疲れているような気がしてきた。
「そうか。あの賑やかなのは、僕も嫌いじゃなかったんだが、仕方ないね」と、ジョーは迂遠にチャールズの提案に賛成した。
 アトリエの空気は青みががっていて、壁一面に立てかけられた素描が寂しく思えた。ジョーはしばらく壁を見つめていたが、気を取り直したようにチャールズの左手に自身の右手を沿わせた。ジョーの手は冷たかった──この話が終わったら暖炉に火を入れないと、とチャールズは考えた。
「君は、僕が君の人生を塗りつぶしてしまうんじゃないかと、ずっと心配しているよね」とジョーは推察した。
 チャールズは、その言葉を否定しなかった。パーティーを通してジョー以外の人間に認められて、ジョーと並び立てるようになりたかった。ジョーに圧倒されてしまうのではなく、自分もそれなりの人物になりたかった。家の中に籠って、アスタとフランクから白い目で見られるだけの生活から離れ、他の支えが欲しかったのだ。
 しかし、最後にはジョーを危険に晒すだけで終わってしまった。
 ジョーは続いて言うべきことを探しているようで、握ったままのチャールズの左手をじっと見つめていた。
「うまく伝わるかは分からないんだが」やがてジョーはチャールズの手を離し、チャールズの頬を両手で包んで目を覗き込んだ。「君は真っ白なカンバスにはなれない。君は出会った時から、ずっと絵の具なんだから」
 チャールズは少し笑った。実務家であるジョーが今まで口にした中で、一番ロマンチックな言葉だった。こそばゆさに揶揄いたくなるのを我慢して、「絵の具ですか?」と聞き返す。
 ジョーはしごく真面目に頷いた。
「ああ。それも、全てに影響を与えてしまうような強い色。黒とか、赤とか」
「俺は青色が好きです」

 チャールズは、海に浮かぶ、まばゆい白をまとった緑色の光を思い浮かべながら言った。ジョーはその言葉に頷いて、チャールズの頬にキスをした。焦茶の瞳は真剣に輝いていた。
「わかった、君は青色の絵の具だ」

 出版社と書かれた古びたドアから顔を覗かせたウォルターは、チャールズを見るや否や手を差し出して、チャールズの手から小切手を奪い取った。
「パーティーはもう開かないのか」
 ウォルターは小切手を眺めながらぞんざいに質問した。
「リスクの大きさを、あなたが教えてくださったので」
「社会勉強になっただろう」ウォルターは鼻を鳴らした。この男は俺のことが嫌いなのだ、と改めてチャールズは思い知る。ウォルターは誰のことも好きじゃないのかもしれない。
 しかし、ウォルターは金を手に入れたことに気を良くしたのか、「なあ」と少し柔かな声を出した。
「お前さんは若いから、今は手に入れた暮らし―恋人や家―を見せびらかせなくて辛いだろう。でも、名声は衰える。長い目で見れば、そんな大したものじゃない。賢い判断をしたな」
 その言葉に応答することはできなかった。ウォルターが「すまんね、忙しいんだ。お前さんのパーティー以外にも、ゴシップを探さなきゃならん場所がたんまりある」と小声で言い訳し、ドアを目の前で閉めたからだ。

 その後、ウォルター・ウィンチェルがラジオのコメンテーターとして出てくるようになると、その度にチャールズはラジオに駆け寄って周波数を変えるようになった。
 ジョーはその行動を訝しく思ったに違いないが、取り立てて何も言わなかった。


 ジョーがウォルターに秘密裏に1000ドルを払っていたことをチャールズが知ったのはずっと先、ジョーが亡くなったのちのことだった。

Ch. 9: フェリス・フレデリク

「結婚してはいけないよ、ドリアン。男は疲れたから結婚して、女は好奇心から結婚するが、どちらも後悔する事になる」

──『ドリアングレイの肖像』(オスカー・ワイルド著)

 子供が好きな人間と嫌いな人間がいる。
 ちょうど、タバコを好きな人間と嫌いな人間がいるように。
 しかしながら子供が好きな人間というのは、無条件に倫理観があり心優しく、いわゆる常識を持っていると世間的に解釈されることが多い。だから人は子供好きなジョーを信頼する。

 チャールズは子供が苦手だった。
 なので、1922年初頭、いきなりアトリエの椅子に現れた少女について、チャールズは話しかけられるまで無視することに決めた。モデルはチャールズが管理しているのだが、またジョーが勝手に採用したのかもしれない。それにしても、女の子が1人でいるのは珍しかった。大抵は母親が、愛娘に滅多なことがないように近くで目を光らせているものだが。
 なんせ、ジョーにはパリ帰りの噂もあるのだ!
 ウールのオーバーコートが汚れないように壁に掛け、袖を捲って絵の具の追加など雑務を行うチャールズを、大きな目で観察していた少女は、好奇心が抑えられなくなったのか口を開いた。
「こんにちは、私はフィリス」
「こんにちは」
 チャールズは少女をチラリと見やって、自分の手元に目線を戻した。しかし、少女はめげずに話を続けた。この部屋で待たされるのに飽きたのかもしれない。
「私、モデルに採用されたの。ここでもモデルをしてるポップス・フレデリクって、私のお父さんなのよ」
「ポップスの子供か」チャールズはようやくフィリスを見やった。あまり似ていないが、父娘とはそんなものだろう。「親父さんは今日は来てないのか?」
「ライエンデッカーさんと一緒に、遅れて来るはずよ」
「そう」
 チャールズは、そこで少女の足元に目をやり、少し相好を崩した。そこにいたのは、小さな白い雑種犬だった。「その犬は?」
「私のよ。スポットっていうの」
「やあ、スポッティ」
 チャールズは床にしゃがみ、犬に手を差し出した。スポットは無感情にチャールズの手を嗅ぎ、そのままつまらなそうにそっぽを向いた。
「おとなしくて良い犬だ」
「ええ」
 チャールズとフィリスは、スポットを撫でてジョーが来るのを待った。幸いにも、スポットの耳が擦り切れる前にジョーは現れた。
「やあ」
 ジョーは2人に挨拶すると、スケッチブックを取りに別室に向かった。チャールズはその後ろをついていき、ドアがしまった瞬間にジョーを問い詰めた。
「フィリス嬢を雇ったんですか?」
「ああ。ちょうど女性モデルがいなかったし、彼女の飼っている犬もモデルに良さそうだから」
「モデルを雇うときは、一言くらい俺に断ってください。給料を計算して渡してるのは俺なんですから」
「すまなかったね」ジョーは全くすまないと思ってない顔で謝罪し、チャールズの頬にキスをした。「拗ねた君も可愛いが、しゃんとしてくれ。仕事の時間だ」

 ジョーはずっと仕事に明け暮れていた。チャールズがパーティーを開かなくなり、付き合いでガイナンのバーにも行かなくなると、それで空いた隙間時間の全てを絵に注ぎ込んだ。
 チャールズが煌びやかな生活から身を引いたことは、他の住人にも良い影響を及ぼしたようだった。
 アスタはよく笑うようになり、外出することが増えた。フランクも『ライフ』誌に採用されたフラッパーの表紙がギブソンに高評価され、少し機嫌が良くなったようだった。
 アトリエには大勢のモデルが行き来したが、フィリスがその常連になるまで時間はそう掛からなかった。フィリスは背こそ低いものの、可愛らしい顔と美しい痩躯の持ち主だった。それに、モデル中の屈託のない話ぶりが、ジョーの気に入ったらしかった。
「チャップリンの新作はもう観て?」とのフィリスの質問に、ジョーが「いいや」と答えると、フィリスはその作品がどんなに素敵で素晴らしいものなのか、長々と語るのだ。チャールズには、なぜフィリスの息が切れないのが不思議でならなかった。

 フィリスが来るようになって数ヶ月たち、季節が変わった。春先で暖かくなり、外出にコートも必要なくなった。
「おい」と、ウェルズの新作を抱えて本屋を出たところを呼び止められたのは、雨上がりの夕方だった。チャールズが振り向くと、ポップスが大きな体躯を揺らしながら雨で濡れた石畳を駆け寄ってきた。
「どうも、奇遇ですね」
「奇遇じゃない、お前さんを探してたんだよ」ポップスは息を切らしながら答えた。チャールズは片眉を上げる。
「少し、話をして良いかな。アトリエではできない類の話で」
「なんでしょう」
 チャールズは、ポップスの険しい表情に嫌な予感を感じながら尋ねた。
「君が知っているかは分からんが、私の娘について、私に取引を持ちかけようとしてきた」
「どんなです」
「金銭と引き換えに、うちの娘をしばらく引き取ると」
 チャールズは、思わずポップスの顔をまじまじと見つめた。血色のいい丸い頬、陽気そうな太い眉、少し白髪の混じった髪。そのどこにも、今口に出されたことが冗談だと書かれていない。
 有り体に言うと、偽装結婚だ。チャールズは、自分の腕に鳥肌が立っていないかそっと確認した。
 ジョーは内気ではあるが内省的ではなく、寡黙ではあっても謙虚ではない。加えて、少し常識に欠けているところがある。気がおかしくなったのでは、とばかりに思い切ったことを仕出かすのは、これが初めてではなかった。
 しかし、今回は度が過ぎている。
「お断りしたよ。しかし他の娘さんに同じことを言う前に、どうにかした方がいいんじゃないかと思ってね」
「お知らせいただき、ありがとうございます」
「いいんだよ」とポップスは同情を込めた表情でチャールズの肩を小突き、そのまま踵を返した。

 家に帰ったチャールズは、まず執事にジョーの居場所を訊いた。それでも分からず、ボーイに声をかけ、料理人に声をかける。庭師に訊いて初めて、裏庭の七面鳥小屋にいることがわかり、そこに走り込んだ。
 果たして、ジョーはそこにいて、足元の七面鳥をぼんやりと眺めていた。どうしてこの男が家畜にこんなに拘るのか全く理解できない。
「なんてことを考えるんです」チャールズはジョーを糾弾した。
「なんのこと?」
「あなたがポップスに提案したことですよ。正気じゃない」
 ジョーは足元の七面鳥から目を逸らして、ため息をついた。まるで駐車違反の切符を切られるような態度だった。5分しか停めてないのに、こんな憂き目に会わなきゃならないのか? といった調子だ。
「ノーマン・ロックウェルは去年、ミスアメリカの選考委員会に選ばれた。サイも参加していた。美人画が得意な人間が勢揃いしていたらしい。僕には声も掛からなかった。ノーマンは、僕の描く女性は魅力がないとまで言う」
「あなたの描く女性は美しいです」
 そうでないと、クッペンハイマーが雇い続けるものか。しかしそれはジョーが望んでいた言葉ではなかったらしく、ジョーは手に持ったステッキで七面鳥の餌箱をつついた。
「僕たちの関係は怪しまれているってことだ。少なくとも、僕は男が好きだと思われてる。アリバイが欲しい」
「アリバイ? 彼女は16歳だ。ただのガキですよ!」
「僕は彼女に何かしようとしたわけじゃない。ただ、近くにあの子がいたら楽しいだろうなと思ったんだ」
 何かしようとしたわけじゃない、の意味するところを思い、チャールズは声を失った。
「──あなたと結婚するだけでも、プレッシャーを感じるでしょう。彼女の人生を破壊するかもしれない」
 いつも明るい声を出す、映画と本が好きな少女。チャールズが持つフィリスのイメージはそれだけだった。そんな彼女を、世間体のために利用しようとする人間の心情を想像するのは困難だ。
 フィリスが成長した時の姿を想像するのはあまりにも容易だ。学校を出て、家で母親の家事手伝いをしながら、近所の男の子にちょっかいをかけられてはにかむ姿が。
 その時になったら、もしかしたら恋愛をしてもいいのかもしれない、とチャールズは思った。もちろん、ジョーではなく自分と同じ年頃の少年と。ニューヨークでは18歳が同意年齢とされているが、それを過ぎたら二回りも歳が違う男に嫁入りして許されるってわけでもないだろう。
「君は17歳だった」とジョーは疲れた声を出した。その言葉の意味が分からずチャールズが黙っていると、ようやくジョーはチャールズの顔を見て、もう一度繰り返した。
「フランクと寝た時、君は17歳だった。君の人生は破壊されたかな」
 冷静な声だった。言うべきことを予め決めていたような。
「なんのことですか」
 チャールズはとぼけたが、ジョーは引っかかってはくれなかった。
「君が年齢を誤魔化していることは知ってた。フランクと寝たことは、最近彼に聞いたよ。うちの家系図を踏みにじる趣味でもあるのかな、まさかオーガスタには何もしてないだろうね」
「まさか!」
「フランクはずっと気に病んでいたらしい。君に恨まれている気がするってね。どうして歳を偽ったんだ」
「──俺は悪い決断をしましたが、悪人ってわけじゃありません」
「悪い決断をするのは君の特権ってわけか」
 ジョーは濡れた地面を杖でぐりぐりと抉った。七面鳥が足元を通り過ぎていった。柵の向こうからは、道行く子供たちのふざけ声が聞こえてきた。こんな会話をするのに全く適さない環境だった。
「話を逸らさないでください。今俺はフィリスの話をしています」
「家に子供を入れたくないだけだろう。君が子供嫌いだから。もしくは、君は嫉妬してるだけだ」
 チャールズは途方に暮れて、ジョーを見つめた。今まで恋していた目の前の男が、いつの間にか別人になっていたような気すらした。
 チャールズは、ジョーのことを善良な男だと思っていた。しかしジョーは内気で閉じた性格ゆえに無害だっただけで、決して虹と太陽だけで構成されているわけではないのだ。
「勘違いしないでください。私はあの子供に幸せになってほしいと思ってるんです」
 チャールズはそう言い募った。犬を撫でていたあの子供と、あの頃の自分がほとんど同じ年だったことに吐き気がした。
「どちらにしろ、起こらなかったことなんだから良いだろう」
 そう言い残して、ジョーはその場を去った。しばらくチャールズはその場に佇んでいたが、やがて七面鳥が大声で鳴いてチャールズを驚かせた。鶏小屋を作るなんてクソみたいなことに賛成しなきゃ良かった、とチャールズは途方に暮れながらも悪態をついた。チャールズの人生には後悔すべきことばかりだった。
 家の中で人に会う気分になれず、チャールズはローズガーデンに赴き、そこのベンチに座った。雨が降った後なので夕焼けが綺麗だ。生垣に太陽が沈み、空がピンク色に染まった。
「お前が泣くなんて珍しいな」フランクの声が背後から聞こえて、チャールズは慌てて頬を拭った。
「泣いてない」
「いつものごとく、嘘つきだな」
 フランクは歌うように言って、チャールズの隣に座った。フランクはちょうど一仕事終えたところだろうか。チャールズはフランクと庭の花が夕日に染まるのを見ていたが、そのうちに沈黙に耐えきれなくなった。
「俺が年齢を誤魔化してたって、いつ気づいたんだ」
 フランクは、どこか納得したような顔をして身じろぎした。なるほどね、ジョーとその話をしたから泣いてたのか、といった表情だった。
「合衆国が参戦したとき。お前はうちで一番若くて、健康だから、召喚されたらどうしようと思ったんだ。それで、念のために年齢を確かめようと色々漁った。──お前はあの時から図体がでかくて、今言われても17歳だったなんて信じられないよ」
「17歳なんて大人みたいなものだろう。働けるし、戦争にだって行ける。きっとジョーは相手が17歳でも19歳でも違いを気にしないし、きっと多くの人が気にしない」
「俺はクソみたいな気分になったよ。ただ思ってたより2歳年下だって分かっただけでも」
 チャールズは消えてしまいたい気持ちになった。
「すまなかった」
「愁傷だな。てっきりお前には嫌われてるんだと思っていた」
「嫌いだ」
 フランクは今日は機嫌がいいようで、チャールズの悪態にもただ肩をすくめた。
「ジョーはお前が思ってるよりも良いやつじゃない。弱者に優しい男ってわけでもない。そうだろう? 無批判にリー将軍の絵を描き、お前みたいな文無しのモデルに手を出して、今度は16歳と結婚しようとしてる。ジョーのことを白馬の王子様みたいに思ってたのはお前だけだよ」
「白馬の王子様だなんて思ってない」
「思ってただろ! ジョーのこといつもキラキラした目で見て、後ろを馬鹿みたいについて回って。俺といてもジョーの話ばかり。やっと目が覚めたか」
 チャールズはその言葉を無視して、ベンチに座ったまま近くのユキヤナギをちぎってみた。剪定が必要かもしれない、庭師に言っておかないと。
 今回のことがあっても、自分にとってのジョーという存在が劇的に変わったわけではないことに、チャールズは薄々気がつきつつあった。ただ、少し警戒するべきことが増えただけだ──チャールズは警戒するのが得意だった。
「何があっても、俺はジョーを嫌えないと思う」
「まあ、お前は馬鹿だからな」フランクはため息をついた。「逆に、周りの目を気にしたジョーにお前が切られるのが先かもしれないな。なんせ、16歳の美人妻ってアリバイもふいになったんだから」
「でも、俺はジョーに愛されてる」チャールズは自分に言い聞かせるように囁いた。
 フランクは、全く呆れた、と空を仰ぎ見た。空は藍色になり、夜が訪れようとしていた。
「陰気な顔してけっこう楽観主義者だよな」
 

 ポップ・フレデリックが1931年に亡くなった翌年、フィリスの母親からチャールズ宛に長い手紙が届いた。
「夫に話を聞きました」という書き出しで、「子供を守ってくださりありがとうございます」という礼で終わるその手紙を、チャールズ・ビーチは暖炉で燃やした。

Ch. 10: ノーマン・ロックウェル

言うまでもないが、雑誌で君の作品を追っている。いつも最高だね

──『NRM Archives』(J.C.ライエンデッカーからノーマンロックウェルへの手紙)

 人は家や愛のために争う。しかし人は同時に、皿に残されたチョコレートひと欠けのためにも争うので、家や愛が特別重要だとは断言できない。

 ノーマン・ロックウェルは長らくJ.C.ライエンデッカーにとって、道で後ろを子犬のようにつけて回る後輩だった。
 チャールズも勿論ノーマン・ロックウェルのことは知っていた。それはノーマンがチャールズの雇ったモデルを捕まえては、ジョーの描き方を逐一聞き出そうとするからだった。
 ジョーもチャールズも、若い画家の憧れが暴走を微笑ましいものとして扱った。内輪でジョークのネタにすることはあっても、その若者に直接声をかける事はなかった。
 しかし1920年になって、ノーマンは正式にジョーの知己となった。駆け出しのこの画家は、戦死者と偲ぶ記念碑を立てるためのチャリティイベントで、ジョーの隣に座って舞い上がっていたらしい。
 そして翌週、何を勘違いしたのかノーマン・ロックウェルはジョーを夕食に招き──イベントでギブソンに無視されたノーマンのことを不憫に思ったジョーは、その招待を受けた。ノーマンは夕食に七面鳥を出し、七面鳥のことを愛しているジョーは満足したようだった。つまり、ノーマンはジョーの友人に格上げされたのだ。
 チャールズがノーマンと出会ったのはそれから2年後、ノーマンが屋敷に訪れた1922年のことだった。
「こんにちは、ビーチです。お会いできて光栄ですよ、ロックウェルさん」
 チャールズは握手の手を差し出した。
 ノーマンは、感嘆の表情でチャールズを見上げた。そして目の前にいるチャールズを一度無視して、ジョーに満面の笑顔を見せた。
「あなたの絵が動いている!」
 チャールズはそれを無視してノーマンと握手した。
「おれのことはノーマンって呼んでくれますか」
「まさか、できませんよ。ロックウェルさん」チャールズは礼儀正しく答えた。
「出身は? ヨーロッパ?」
「カナダです」
「そりゃまた、どうしてここまで」
「ジョーの描く女性に惚れて、ここまで来たんです」
 よっぽど純粋な人間しか信じない嘘を、チャールズはまだ吐き続けていた。ジョーがこの嘘を気に入ったからだ。ナイーブで頭が空っぽでジョーを尊敬している、異性愛者の秘書。
「へえ、さすがジョセフ・ライエンデッカー」とノーマンは瞬いた。ノーマンは言葉を額面通りに受け取る癖があるのだろうか? いや、憧れの画家の家に来た興奮が判断力を低下させているのだろう。

 その日から、ノーマンはしきりにジョーを尋ねてくるようになった。
 ジョーとしても、駆け出しの画家に頼られるのは悪い気分でないらしく、居留守を使ったり、チャールズに追い返させる頻度もそう高くはなかった。
 チャールズも、最初はこの穏やかな物腰の男のことは気に入っていた。本当に! ノーマンはマンハッタンで生まれ育ったらしいが、どこにも都会人特有の喧々したところがなくて、絵もどこか牧歌的だった。また、ジョーのことを純粋に尊敬しているのもチャールズの鼻を高くさせた。
 ノーマンも、チャールズに対してそれなりの礼儀を持って接していた。しかしながらノーマンは、邸宅のロビーが吹き抜けになっていて、そこでの会話が筒抜けだということを知らなかった。
 なので、チャールズは2階からノーマンがジョーに語りかける言葉を聞いてしまった。1922年、10月のことだった。
「気づいてますか、ビーチさんはあなたのことを話すとき、一人称に私たちを使うんです。私たちは絵を描いている途中だ──私たちはあの雑誌への掲載を希望している──」
 チャールズは廊下で足を止めて、階下の会話に耳をそばだてた。
「知っている」ジョーはにべもなく頷いた。「ビーチと僕は対等なチームだから、そうなるのは仕方ないことだ」
「そう思わせてるんだ。ビーチさんは、プロの御者のような能力を持っているから」
 ジョーは親しくない人の前ではチャールズを苗字で呼んだからか、ノーマンはチャールズの名前を知らないようだった。興味もないのだろう。
「つまり?」
「──目の前に開けた道の幅を正確に把握して、自分が通り抜けられるかどうか判断できる」
 チャールズはこっそり笑った。詩的な表現だ。もしチャールズが実際そんなに器用な人間だったら、ジョーの家族にもっと好かれていたはずなのだが。
「チャールズはクセが強いし誤解されやすいが、君が思っているような人間ではないよ。違う来歴を持つ人を、簡単に理解できると思わないほうが良い」
「そうかもしれませんね」ノーマンは重々しく頷いた。「おれは17歳からイラストレーターとして暮らしてきました。あなただって似たようなものでしょう。おれたちにはビーチさんのような、根無草然とした人の生き方は真に理解できない」
「そういった意味じゃないんだが」
 ジョーは困ったように笑い、ランチの用意が済んでいるか見る、と言ってその場を去った。それではノーマンは昼を一緒に食べるつもりなのだ。チャールズは急いで階段を降り、壁際の兜を物珍しそうに見つめるノーマンの横に来た。そして、机の上に積み重ねてあった本を手で薙ぎ倒した。
 床に本が落ちる音に、ノーマンは飛び上がってこちらを向いた。
 今日のノーマンは少し大きめの濃い灰色のジャケットを着ていて、いつにも増して穏やかで無害に見えた。実際、大抵の場合ノーマンは穏やかで無害であり、ジョーよりもよほど先進的でもある。──ジョーの描いたインディアンを見たことがあるだろうか?
「うっかり引っ掛けて落としてしまった。目の前に開けた道の幅を正確に把握するのが、思っていたよりも苦手みたいだ」
 先程の会話を聞かれていたことへの羞恥、怯え、後悔がノーマンの表情の表層へ現れ、そして消えていき、最終的に残ったのはチャールズに対する苛立ちだけだった。
「いつでもそうやって監視してるんですか?」
「気づいてなかったら申し訳ないが、俺はここに住んでるから会話も聞こえてしまうんだ」
「そんな態度だから、執着心の強いクソ野郎って陰で勘違いされるんですよ」
 ノーマンは生意気にも、親切ごかしてそう言った。
「なあ」チャールズは笑顔を作って一歩近づいた。あのノーマン・ロックウェルが一歩後ずさったのが愉快だった。「俺が仮に、仮にだよ! ジョーの望み通りにジョーの仕事を一手に引き受けて、一人称に私たちを使っているからって、自動的に俺がクソ野郎になるわけじゃない。クソ野郎として生きることは、また別途選択したんだ。そうしないとお前みたいなやつに絡まれるからな」
「なんなんだよ」
「可愛い奥さんがいるんだろう? あること無いこと吹き込まれたくなかったら、人の家の事情に首を突っ込まないことだ」
 チャールズは低い声でそう言い、ノーマンの表情が変わるのを楽しんだ。ノーマンは言い返す覚悟を決めたようで口を開いたが──そこで扉が開いたのでチャールズとノーマンは互いから目を離して扉を振り向いた。
「ノーマン、ここにいたのか」
 部屋に入ったジョーはノーマンに声をかけた。チャールズは笑顔を崩さずに、ジョーに目線をやった。
「ロックウェルさんは急用を思い出してお帰りになるそうですよ」
「そうなのかい」ジョーはノーマンを見た。ノーマンは少し躊躇した後、頷いてみせた。へえ賢い選択もできるじゃないか、とチャールズはそれを鼻で笑うのを堪えた。
「分かった、運転手を呼んでこさせるよ。それまで暖炉で暖まっていったらどうだ」
 可哀想なノーマンは、チャールズとジョーの顔を見比べた。そしてチャールズが特に怒ってなさそうなのを見ると、「それではお言葉に甘えて」とジョーの後ろについてリビングへと向かった。
 リビングには、メアリとフランクがいて、暖炉に当たっていた。チャールズが用意した椅子に、ジョーとノーマンは腰掛けた──ジョーはメアリの隣に、ノーマンはフランクの隣に。今日はとりわけ冷えるが、まだ本格的な冬が到来したわけでもない。部屋は暑いほどだった。
 チャールズの目の前に広がったのは、完璧な一家団欒の光景だった。
「チャールズ、薪を取ってくれないか」とフランクは言った。ノーマンはまだチャールズの様子を気にしていて、こちらをチラチラと伺っていた。それにまた腹が立った。
「自分でお取りになったらどうです」と、思わずチャールズは断った。そして、自分が意図したよりも数段冷たい声が出て驚いた。フランクとアスタはチャールズの顔をまじまじと見つめた。
「チャールズ」と、フランクは眉を顰めた。
「チャールズ」アスタも咎めるが、チャールズに動くつもりはない。
「ジョー?」と、フランクは矛先をジョーに向けた。この男の蛮行を許して良いのか? といったニュアンスだ。しかしジョーは何にも気づかないふりをして、ただ暖炉の火を見つめている。
 そのまま膠着状態が続いたところで、扉が開いた。
「ロックウェルさん」
「助かった」ノーマンは呟き、運転手に駆け寄った。
 ノーマンにとっては踏んだり蹴ったりの訪問となっただろう。チャールズは少しノーマンに同情した。しかし、ノーマンがこれで諦める相手でないのも分かっていた。
 チャールズは、その日からノーマンとジョーを2人きりにしないよう細心の注意を払うようになったが、それがまたノーマンの気に触るようだった。
 ノーマンの目には、チャールズは天才画家に取り付く悪影響なのだろう。残念ながら、チャールズはジョーの寄生虫として倦厭されることには慣れっこで、ノーマンの恨みがましい目つきも平気だった。

 1923年3月23日は、ジョーの誕生日だった。庭では春の花が咲き誇り、キッチンでは料理人がスポンジを準備している。チャールズはジョーへの贈り物──ジョーが長いこと連載を追っていた『ユリシーズ』の待ち望まれし完成本、ページの間には道化師のチケットが挟んである──にラッピングを施していた。
「どうして、あいつのことを嫌うんだ?」
 チャールズはラッピングペーパーと格闘していたため、フランクが部屋に入ってきたことに気づいていなかった。フランクの声に驚いた拍子にラッピングを引っ張って破ってしまい、小声で悪態をつく。
 フランクは寝起きなのかシャツしか着ておらず、少しカールした髪が額にかかっていた。これから顔を洗いに行くところだろう。
「あいつって誰です」
「ノーマンだよ。ジョーの誕生日のお祝いに来たいって電話、さっき断ってただろ」
「盗み聞きですか」チャールズが咎めると、フランクは肩をすくめる。「俺がロックウェルさんのことを嫌ってるんじゃなくて、ロックウェルさんが俺のことを敵視してるんです」
「流石のお前も、ベッドで媚を売れない相手には形なしだな」
 そう言った直後に、フランクはバツが悪そうな顔をした。フランクが口を滑らせたのは明らかで、このまま10秒待てばフランクは謝罪の言葉を口にするだろう。しかし、チャールズはフランクを許すつもりはなかった。
「あなたの分の屋敷の維持費を、この数ヶ月間は俺が払っている」とチャールズは切り札を出した。フランクは「だから?」と続きを促す。
「ジョーは植物を育てるのが好きだから、あなたみたいな役に立たない人間を養うのに抵抗がないのかもしれないが、俺はそうじゃないんです」
「この状況で我が家に寄生しているのは、おまえの方だろう」
「ご冗談を」
「ジョーと俺たちはお互いに依存しあっていて、それで上手く回っていた。ジョーからの依存を全て奪っておいて、こちらが何もしていないと詰るのか?」
 フランクは泣きそうな顔をしていた。それを見て、フランクとジョーの顔立ちが全く似ていないことに、チャールズは初めて気がついた。目の形が同じで顔立ちが整っているからか、アスタも含めて3人はそっくりだと評されることが多かった。しかしジョーは感情が昂ったときに顔が赤くならないし、こんな子供のように唇を歪めもしない。
 フランクはジョーよりずっと感情豊かで、それは初めて会ったときに好印象を抱いた要素の1つのはずだった。
「あなたには手に職があるでしょう。ここを離れても生きていけるはずだ」
「お前に出会う前、俺がパリに行ったのはジョーの付き添いとしてだ!」フランクは叫んだ。「絵を習ったのも付き添いとしてだった。絵を描いても、『少ないほうのライエンデッカー』としてしか認められなかった。俺にはジョーの付き添いとしての人生しかなかったのに、お前はそれを奪ったんだ!」
 言い返すべきことは沢山あった。しかし、チャールズはフランクの涙に動揺して、何も口にすることができなかった。フランクはしばらく床を見つめていたが、しばらくして「なんでお前がロックウェルを嫌うのか教えてやろうか?」と震える声で言った。
「なんですか」
「同族嫌悪だよ。奴の図々しさは、頼まれてもいないのにジョーの絵筆を洗いはじめた頃のお前とそっくりだ」
 そして、フランクはその場を去った。チャールズは、握りしめて皺々になったラッピングペーパーを放り捨てて、ため息をついた。
 チャールズは今まで、フランクを心の奥底で味方として認識していたことに気づいた。たとえお互いの存在を疎んでいたとしても、同じ『こちら側』の人間として、最後の最後には味方になってくれるはずだった。しかしフランクは一線を超えた。
 一度一線を超えたら、次が必ずある。チャールズは同じことをもう一度フランクから言われて、立ち直れるか分からなかった。
 
 フランクはその日、家に帰ってこなかった。その次の日も帰らず、心配して探しに出たアスタが帰宅したのは、翌々日のことだった。
 出迎えたジョーに、アスタは「フランクは傷ついていて、無理やり連れて戻れないから今はホテルに置いてきた」と言った。その言葉が、フランクがまた薬を使用したことを表しているのは明らかだった。
 アスタはひどく疲れてみえた。春らしい、深緑と白のストライプの麻のワンピースを着ていたが、その裾はすでに皺になりつつあった。
「この男を最初に招き入れたのが間違いだったのよ」
 アスタは、お茶を淹れようとポットを持ってきたチャールズを指差した。
「この男のせいで、フランクはさらに追い詰められてしまった。あんなに優しい繊細な子なのに」
「チャールズ、向こうの部屋に行っておいで」
 ジョーはチャールズを気遣ったが、チャールズはその場を離れられなかった。
「ジョー、チャールズを庇わないで」
「でも、チャールズの雇い主は僕だ。チャールズが何かしたのなら、僕を責めるべきだろう」
「私には情があるから家族を責められないの。でも、この男のことは責められる。こういうのをなんて言うんだっけな? ああ思い出した、移情ね。ご指摘ありがとう」
 アスタはそう言って、チャールズを睨め付けた。
 チャールズは、途方に暮れてアスタを見つめかえした。
 アスタのことは尊敬していた──気性が荒く短気だが、善人だった。ジョーとフランクの絵を小まめに褒め、弟たちの体調に気を遣い、ケロッグの広告イラストを「子供が好きなの」と自室に飾る、優しい女性だった。
 アスタがフランクの肩を持つことは予想できていたが、アスタと仲違いするのはチャールズの本意ではなかった。
「この数年間、俺はまるであなた達兄弟を堕落させた悪魔のように扱われてきたけれど、俺は招き入れられたとき、ただのガキだったんです」
「黙りなさい! 人のお金で何不自由なく暮らしておきながら、いつも被害者みたいなふりをして!」
 アスタは怒鳴ったが、懇願しているように聞こえた。
 アスタはフランクとどんな会話をしたのだろう、とチャールズは回らない頭で想像した。生まれた時から面倒を見てきた末弟が、ゆっくりと壊れていくのを、アスタは今までどんな思いで見守ってきたのだろう。
 そして、思いがけないことが起こった。あの品行方正で厳しいアスタが、唾をチャールズの足元に吐き捨てたのだ。
 チャールズは緊張で口の中が乾くのを感じた。ジョーは、チャールズとアスタを交互に見つめた。アスタだけがチャールズをじっと見ていた。
 耐え難いほどの時間が経った。チャールズは、ジョーの判決が降るのを──出ていけと言われるのを──目を閉じて待った。
「僕たちは距離をおくべきだと思う」とジョーの声が聞こえ、チャールズは目を開いた。どんな屁理屈を捏ねてでも、ジョーの近くから動くつもりはなかった。
 しかしチャールズの予想は外れ、その言葉はチャールズに向けられたものではなかった。
 ジョーはアスタを見つめていた。アスタは、信じられないといった顔でジョーを見つめ返していたが、やがて踵を返して部屋を出て行った。
 そして、屋敷には静寂が訪れた。ジョーは仕事についてかりそめの言い訳を呟いて、アトリエに向かった。
 チャールズは自室に戻り、戸に鍵をかけた。すべてがどうしようもなく不安で、今は誰かと話せる自信がなかった。
 この屋敷は、2人で住まうには大きすぎるのだ。

 
 1937年にノーマン・ロックウェルはニュー・ロシェルから引っ越したが、一度だけ屋敷を再び訪れている。ジョーのいとこから、「ジョーが寂しがっている」との報を受けたのだと言う。

Ch. 11: フランク・エグゼビア・ライエンデッカー

だからこそ我々は流れに逆らって船を漕ぐのだ、絶え間なく過去へと押し流されながらも

──『華麗なるギャツビー』(F.S.フィッツジェラルド著)

 全ての自殺は遺書を必要とする。
 1924年4月18日──キリストが受難を受けたとされる聖金曜日──にフランクの遺体が発見されたとき、遺書が発見されなかったことに誰もが驚いた。フランクは常に死を望んでいるように振る舞ってきたからだ。しかしフランクの命を奪ったのは彼自身ではなく、質の悪いドラッグだった。
 部屋には描きかけの絵が散乱しており、次の精神科医の予約も入っていた。
 フランクは生き続けるつもりだった。
 遺体確認をジョーが行う間、チャールズは死体安置所の廊下でクロスワード──最近流行りの遊びだ──を解きながら待っていた。鉛筆を握る手は震え、目は文字を読むことなく紙面を滑ったが、気を紛らわせなければ立っていられない気がしたのだ。チャールズは文学青年には程遠いので、多くの単語を後回しにしなければならない。Sで始まる9文字の「まったく違う生き物同士が支えあって暮らすこと」をなんと言うのだっただろう?
 帰ってきたジョーは血の気の引いた顔をしていたが、しっかりした足取りだった。そして、開口一番に「死亡届の場所を、僕の家にするわけにはいかないだろうか」と提案した。
「どうしてです」
「君と2人だけで屋敷に住んでいることを、他に知られない方が良い」
「それは確かにそうですが」
「アスタとも相談したし、先ほど話した感じだと医者も問題ないと言っていた」
 ジョーの心配は、この悲劇にはひどく不適切に思われた。しかし、死亡届には無事にニューロシェルと記載されることとなった。
 ジョーは周りに言われるがままにフランクの遺作個展を開き、しかしその後は決してフランクの名前を口にしようとしなかった。チャールズとジョーの生活は徐々に日常に戻ったが、どこか張り詰めたような雰囲気が残っていた。まるで、あと少しでも重しを乗せると全てが崩れ去りそうな。
 そして、最後の一藁を運んできたのはコールズ・〈サイ〉・フィリプスだった。

「結核で、病院通いが続いてるんだ。先が長くないとも言われてる。君にも迷惑をかけるかも」
 サイがそう打ち明けたのは、フランクの個展が終わって数週間経ったのちのことだった。ジョーとチャールズは、サイの経営する鳩農園──実に5000羽以上の鳩がいる──を訪れていた。フランクが亡くなる前から計画していた旅行で、サイから延期の提案があったもののジョーが行くと言い張ったのだ。
 ジョーとチャールズは、近くの鳩小屋の中にいる100羽ほどの鳩と一緒に、サイの穏やかな顔を眺めた。
「深刻なのか?」
「ああ」
「テレサや子供たちは知ってる?」
「もちろん知ってるさ」
 フランクを亡くしたばかりのジョーにとって、サイの告白は一番聞きたくない言葉だった。ジョーは少し口籠もったあと、「医療費でもなんでも都合するから言ってくれ。もしもの時があったら、君も子供たちも奥方も、暫く屋敷に住めばいい」と提案した。
 それはいかにもジョーの言いそうな言葉だったので、チャールズとサイは目配せをした。
「ありがとう。でもそこまで厄介になれないよ。それに君だって底なしの財布を持っているわけじゃないだろう」
「遠慮をしないで。稼ぐ以上の金を使ったら、もっと稼がざるを得なくなって、良いサイクルに入ることができる」とジョーは言い募った。
 この男は冗談を言ってるのか、という目でサイがこちらを見たので、ビーチは肩を竦めた。「稼ぐ以上の金を使え」はジョーのモットーだったが、そもそもジョーは自分が日々いくらを浪費しているのか把握してなかった。ジョーは思い通りに金を使ってもなぜか手元に残っているように認識しているようだが、財布の紐を握っているのはチャールズであり、浪費は入念にコントロールされていた。今の収入が激減するようなことさえなければ問題ないはずだ。
 サイは、心の片隅では全てを覚悟しているようであり、もう片隅では状況をまだ楽観視しているようだった。サイの明るさは多少の緩衝材として働いたが、いずれにせよ、サイの打ち明け話はジョーに多大な影響を与えたようだった。ジョーは徐々に防ぎ込むようになり、他の画家のことも可能な限り避けるようになり──次第にチャールズとも距離を置くようになった。

 ジョーが行方不明になったのは、葬式から3ヶ月が過ぎてようやっと喪が明け、季節が夏になった頃だった。
 チャールズが警察に相談しなかったのは、ジョーの「しばらく出かける」という書き置きがあったからだった。書き置きを発見してすぐチャールズは車庫に飛び込んだが、そこには確かにロードスターがなくなっていた。
「ジョーはどこに行ったんだ」
 チャールズが運転手に電話をかけて問い詰めると、運転手は電話越しにも分かるほどあたふたした様子で答えた。
「どこかに旅行に出かけると言っていました。行き先は聞いてませんが、心配しないでと伝えるように言われて……。お1人で出かけるタイプでもないでしょうし、どこかのモデルと一緒にいるんじゃないでしょうか」
 その言葉を聞いて、まずジョーが無事であることに安心した。その次に押し寄せたのは、ジョーは自分から逃げたのでは、という恐怖心だった。
 もう捨てられてしまったのだろうか、とチャールズは思った。フランクが亡くなったことで、チャールズを責めているのだろうか? それとも他のモデルにうつつを抜かして、悲しさを紛らわせようとしている?
 数年前の会話が脳裏に蘇った──チャールズはセックスをしたくないと言い、ジョーはそれに理解を示した。チャールズの人生の中でも最も嬉しかった瞬間の一つだった。しかし、あの理解は上部だけのものだったのだろうか?
 ジョーはチャールズの今までの献身を、とうとう無碍にすることに決めたのだろうか?

 電車とバスを乗り継ぎ、プロスペクト・ストリートにあるガレージ──ノーマンのアトリエに向かったのは、行方不明になった翌日のことだった。最後にジョーが会ったのは、この男であるはずだった。
 ベルを鳴らしてしばらく待つと、2階の窓からノーマンが頭を出した。そこでチャールズは初めて、窓枠に鏡が取り付けてあり、自分が来る様子が室内から観察されていたことに気づいた。
「やあ、ビーチさん」ノーマンはいつも通りの朗らかさで応じた。「上がってらっしゃいな」
 チャールズは階段をあがり、ノーマンのアトリエの中に足を踏み入れた。外と全く変わらない気温だった。アトリエは丁寧に整頓されていて、気鋭の売れっ子画家にしては可愛らしいほどいじましい──大金を手に入れた人間の誰もが煌びやかな成金生活に浸るわけではないってことだ。木の梁が天井に走り、小さな窓からは光が差し込んでいた。床に散らばった参考写真がどこか場違いだった。
「ジョーの行方を知らないか」
 ノーマンは、首をかしげた。
「どうかなさったんですか」
「モデルと旅行に出たらしい。で、行き先を知らないか」
「おれは知りませんね。でも、少しの息抜きくらいするでしょう」
「でも、俺に何も言わずに?」
「同行者をマン法Mann Actで逮捕してやる、とばかりに息巻いてますね」とノーマンは軽口を叩いた。
「そんなつもりはない」
「お互いの一挙一動がそこまで影響を与えること自体、不健全に思えますが」
 ノーマンはそう進言した。もっともな言葉だが、チャールズは黙っていることができなかった。
 フランクの死はチャールズにとっても痛手だったが、チャールズは痛みを押し隠してきた。葬式では泣かずにジョーを気遣い、それが終わった後は個展と墓の手配に明け暮れた。それなのにジョーは一度もチャールズの方を向かなかった。
 その反動が感情の波となり、目の前の無邪気な若者を前にして押し寄せようとしていた。
「もちろんジョーの一挙一動は俺に影響を与えるさ! 彼が俺の全てなんだから! 俺は彼に尽くしているのに、どうしてこう──」
 ノーマンは目を見張ってチャールズを見つめていた。ノーマンはどちらかといえば痩躯で──先の大戦で兵隊に志願したものの低体重で落とされたと聞いた──チャールズは大抵の男よりは体格が良く、ノーマンよりも大幅に体格が良かったため、怯えさせてしまったのかもしれない。
 チャールズは皮張りの椅子に座り、頭を抱えた。狼狽えるな、とチャールズは自分に言い聞かせた。ノーマンは部外者なのだから、ノーマンに怒りをぶつけるべきではない。怒りをぶつけるならジョーにするべきだ。チャールズが涙を堪えながら床を見つめてしばらくしたとき、ノーマンが口を開いた。
「そういえば、カナダに行くと言ってました」
 チャールズはバネのように顔を上げた。
「カナダのどこだか分かるか」
「それはちょっと」
「そうか。……ありがとう。仕事中に邪魔したな」
 ここに長居し過ぎたかもしれない。チャールズは気落ちしながらも椅子から立ち上がり、扉に向かった。その後ろ姿を、ノーマンは「あの」と呼び止めた。
「なんだ」
「隣のガレージを、フランクがアトリエに使っていたでしょう」
「それがどうかしたのか」
「家具や作品はすぐに運び出された後、私物が少し残っていたのをこちらで預かってるんです。ジョーに渡そうかと思ったんだが、彼はフランクについて話すのをまだ嫌がっているから」
「それは……」チャールズは顔を顰めた。フランクのことを考えると胸が痛むのはチャールズも同じだった。「悪いが、処分してもらえるか? 欲しいものがあったら持っていってくれ」
 その回答がノーマンの気に入らなかったらしいのは、ノーマンの表情からすぐ読み取れた。
 ノーマンが生前にフランクの精神科医通いに付き添っていたことは、葬式で聞いて初めて知った。ノーマンはフランクの死についてチャールズを責めているのだろう。そうしない理由がない。実質的に、フランクを屋敷から追い出したのはチャールズなのだから。
 チャールズは言い訳するように、「フランクのことは俺もまだ考えたくないんだ」と言葉を重ねた。
 ノーマンは何も言わなかったが、フランクのことを考えてやったことが、過去に一度でもあるのか? と、その瞳が語っていた。

 行方が北だと分かっても、カナダのどこにいるのか分かるはずもない。
 チャールズは自室に篭り、クロスワードパズルを解いて気を誤魔化して過ごした。 車の音がするたびに窓の外を見やる生活は、アトリエで住んでいる時のようにチャールズの神経を少しずつ削っていった。最初にあった焦りは徐々に心配に取って変わった。なんせ、ジョーは恐ろしく内気なのだ。家族やチャールズ無しでは出かけたがらないほどに。
 屋敷にジョーが帰ってきたのは、ジョーが出ていって5日後の真夜中だった。車の音を聞いたチャールズは飛び起きて、パジャマのままロータリーに飛び出した。ロータリーにはロードスターが停まっており、くたびれた顔のジョーが立っていた。「起こしちゃった?」
「ジョー! どこに行ってたんですか」
「どうしたんだ、落ち着いて」
「誰と行ってたんです。この前俺が雇った金髪? それとも既に辞めたモデルですか? まさかバリモア? それともニール・ハミルトン?」
「誰でもないよ。家の中に入ろう」
「なんで教えてくれないんです」
「君が心配すべきことは何もない」
 ジョーがそのような言葉遣いをするのは滅多にないことだったので、チャールズは少し怯みながらもジョーの腕を掴んだ。
「何でそんなひどいことを言うんですか、俺がどんな気持ちになったと思いますか。どれだけ心配したか──もう戻ってこないんじゃないかと」
「チャールズ、落ち着いてくれ。君が心配するようなことはない。本当に」
「じゃあ教えてください」
 ジョーはようやっと家の中に入るのを諦めて、玄関ポーチに荷物を置いた。
「オンタリオに行ってきたんだ」
 チャールズは黙って続きを促した。ジョーは少し吃りながらも、ゆっくりと話した。
「君が定期的に匿名で金を送っている相手がいることに気づいて、気になってね」
 それではジョーは、チャールズが仕送りをしているのを気にして故郷に行ったのだ。
「俺の給料分で何をしようと俺の勝手でしょう」チャールズは力なく反論した。「それに、帳簿や小切手に気になるところがあるなら、直接聞いてくだされば良いのに」
「言ったら君に反対されそうだから。そちらの方が過激な反応を引き出すとは思っても見なかったが」
 ジョーがそう言いながらチャールズがまだ掴んだままの腕に目をやったので、チャールズは慌てて腕を離した。
「……会ったんですか?」
「ああ、スケッチのための旅行だと言ったら、喜んで家にあげてくれたよ。僕のことは言ってないんだね」
「ええ」
「家の様子は金に困っている風ではなかったな。お父君は足が悪いようだが、息子が仕送りを送ってくるのだと言っていた。お2人とも元気そうに見えた。──君は母親似だね」
 内気なジョーにとって、スパイの真似事をするのは緊張することだったろう。背後で嗅ぎ回られたことに怒るべきだと分かっていながら、チャールズはすっかり毒気を抜かれて椅子に沈み込んだ。
 息子として支えられないことで、親が路頭に迷っていたらと常に不安に思っていた。ジョーが父母を真っ当に看取ったのに感化されて、匿名での仕送りをするようになった。
 しかし、チャールズからの仕送りだとバレていたのだ。考えてみれば、バレないはずが無いのだが。
「どうしてこんなことをしたんです」
「君の故郷を見ておきたかったんだ。故郷を捨てて僕の元にいることを、君が後悔していたらどうしようかと不安になって」
 ジョーは2つ勘違いしていた。まず、チャールズは故郷を捨てたのではなく故郷に捨てられたのだった。そして、チャールズが故郷に帰りたいと思うことなどあり得ない。チャールズは、ジョーを愛しているのだから。
 チャールズはそこまで考えて、気づきを得た。
 ジョーは、チャールズがフランクの件で傷ついていることにきちんと気づいてくれていたのだ。 そしてジョーはもう身内を1人も失くすつもりはないのだ。だからチャールズが何か後悔していないか考えて煮詰まって、こんな思い切った真似をしたりする。
 思えば、ジョーが思い切った行動を取るとき、それはたいていチャールズのためだった。ジョーはチャールズのことを愛しているのだ。
「父母のことはたまに懐かしいですが、俺は今のままで十分幸せですよ」
「本当かな」
「ええ。世界一の幸せ者です」
 ジョーは納得していないようだったが、荷物をポーチに置いたまま、チャールズの手を引いて屋敷のドアを開けた。
 ジョーの後ろについて寝室に入りながら、「ジョー」とチャールズは決意を込めて声をかけた。「明日、フランクの墓参りに行きましょう」
 ジョーは躊躇したのち、「君が一緒に行ってくれるなら」と頷いて、チャールズの手を取りベッドに引き寄せた。チャールズは靴を脱いでジョーの隣に潜り込んだ。ジョーは目を瞑り、やがて寝息を立て始めたが、その間もチャールズの手を握ったままだった。フランクのことも、サイのことも、ジョーと一緒だったら乗り越えられる気がした。
 そこで、チャールズはもう一つ気づいた。クロスワードの答えは共生Symbiosisだ。あんなに頭を悩ませていたのに、一度分かってしまえば、思い悩むほどのことでもなかった。

Ch. 12: 追悼に代えて

「ジョー、あなたは終わりだね。彼らはもうあなたの絵を必要としてないみたいだ」
──『The Saturday Evening Post 1973 May/June』(チャールズ・ビーチの言葉)

 チャールズ・ビーチの晩年に関して簡単に記す。

1930
・クルエット・ピーボディとの契約が満了する。

1943
・『サタデー・イブニング・ポスト』へ最後の表紙が掲載される。

1944
・ J.C.ライエンデッカーは遺言を改める。
 仕事が少なくなり、周りの画家も櫛の歯が欠けたようにいなくなり、先行きに思うところがあったのかもしれない。

1951
・ J.C.ライエンデッカーは永眠する。
 心臓発作だ。チャールズ・ビーチの隣に座り、庭を眺めていたときの出来事だった。

・ J.C.ライエンデッカーの葬儀が行われる。
 葬儀には7人が出席した。父ピーター、母エリザベス、弟フランクと共に、ライエンデッカー家の墓に入れられる。

・ J.C.ライエンデッカーの遺言は、財産をチャールズとオーガスタの2人で等分することであり、屋敷は売りに出された。
 チャールズは、スケッチや手紙などを全て処分するように指示を受け、それをほぼ忠実に守る。
 「ほぼ忠実」と書いたのは、屋敷に一部のスケッチが残っていたからでもあり、チャールズ・ビーチが道端で絵を低価格で売ったからでもある。300万ドルの遺産を受け取ったのだから金が目的ではなかったのだろうが、チャールズ・ビーチが何を考えていたのか断言することはできない。ただ、これだけは分かる──芸術家の遺族の多くが作品を後世に伝えることで死を悼むが、チャールズ・ビーチにはそれが許されなかった。

1952
・ チャールズ・ビーチは酒に溺れ、体を壊してしまう。
 もしチャールズ・ビーチとJ.C.ライエンデッカーが家族だったら、家族を亡くした彼の体調を気遣ってくれる人が近くにいたかもしれない。もし世間の風向きが違ったら、チャールズ・ビーチもJ.C.ライエンデッカーとの出会いを運命で唯一のものとせず、希望を持って生きていけたかもしれない。彼の晩年に支えとなる人物がいたことを願う。

1952(もしくは、1954)
・ チャールズ・ビーチは永眠する。
 チャールズ・ビーチの墓の場所はわからないままだ。彼は50年J.C.ライエンデッカーに連れ添ったが、同じ墓に入ることはなかった。

1960
・ ノーマン・ロックウェルが自伝を出版する。
 その中でチャールズ・ビーチは「愚かで巨大で白い寄生虫」、J.C.ライエンデッカーは「魅力的な女性が描けたことがない」と描写されている。

2021
・ マウントトムロードの邸宅は、現在は子供向け施設となっている。木製のデッキや手すりなどが付け加えられ、芝生にはサッカーのゴールが置かれている。かつて狂乱の1920年代を彩った豪邸としての面影はない。施設のホームページには、プライドフラッグを手にして、頬に虹をペイントした子供たちの画像が掲載されている。

参考文献

主な参考文献。

『J.C.Leyendecker』Laurence S. Cutler & Judy Goffman Cutler & The National Museum of American Illustration著, 2008 及び 上記邦訳『アート オブ J.C.ライエンデッカー』2016

『J .C.Leyendecker』Michael Schau著, 1974

『The Saturday Evening Post』 15 October 1938, [Keeping Posted]

『The Saturday Evening Post』May-June 1973, [Leyendecker; Sunlight and Stone] David Rowland著

『The Saturday Evening Post』October 1981, [Norman Rockwells Idol]

『The Human Figure』J. H. Vanderpoel著, 1958

『黄金期のアメリカンイラストレーター』津神久三著,1993

『America’s Great Illustrators』Meyer著,1982

『High art joins popular culture_ the life and cover art of J.C. Leyendecker』Lindsay Anne Moroney著, 2004

『How to Make It as a Mainstream Magazine Illustrator; or, J. C. Leyendecker and Norman Rockwell Go to War』Jennifer A. Greenhill著, 2018

『Outlaw Marriage; The Hidden Histories of Fifteen Extraordinary Same-Sex Couples』Rodger Streitmatter著, 2012

『Fashioning the American Man: The Arrow Collar Man, 1907–1931』Carole Turbin著, 2002

『Joseph Christian Leyendecker: 225 Golden Age Illustrations』Daniel and Denise Ankele, 2014

『J C & F X Leyendecker Price and Identification Guide』The Illustrator Collectors News著, 2013

『アメリカン・イラストレーション展カタログ』福島県立美術館著, 1993

『New York Times』December 27, 1998, [The Father of the New Year’s Baby] Gary Kriss著

『New York Times』August 14, 1951, [‘Model’ Inherits $30,000]

『New York Times』July 2016, 1951, [J.C.Leyendecker, Noted Artist, 77]

『New York Times』September 16, 1951 [Artist’s Home Offered]

『New York Times』November 29, 1964 [Advertising: Arrow Seeking a New Image]

『My Life as an Illustrator』Norman Rockwell著, 1960

『Norman Rockwell 332 Magazine Covers』Christopher Finch著, 1991

『ノーマン・ロックウェル 1894−1978 アメリカで最も愛される画家』Karal Ann Marling著, 2007

『Norman Rockwell’s people』Susan E Meyer著, 1981
『New World Coming, The 1920s and the Making of Modern America』Nathan Miller著, 2004

『The Sexual Perspective; homosexuality and art in the last 100 years in the west』Emmanuel Cooper著, 1986

『アメリカ歴史地図』マーティン・ギルバート著, 2003

『密造酒の歴史』ケビン・R・コザー著, 2018

『A pictorial history of the silent screen』Daniel Blum著, 1974

『オンリー・イエスタデイ―1920年代・アメリカ』Frederick Lewis Allen著, 藤久 ミネ訳 1993

『Fadeaway: The remarkable imaginary of Coles Phillips』Scott M. Fisher著, 2019

『All-American Girl』Michael Schau著, 1975

『New York Times』June 14, 1927 [C.Coles Phillips, Illustrator, Dead]

『New York Times』June 15, 1927 [Services for C.Coles Phillips]

『New York Times』December 15, 1928 [Coles Phillips Left an Estate of $13,345]

『The Great Gatsby』F. Scott Fitzgerald著, 1925

『美しく呪われた人たち』F. Scott Fitzgerald著, 上岡伸雄訳, 2019

『楽園のこちら側』F. Scott Fitzgerald著, 朝比奈武訳, 2016

『The Saturday Evening Post』2 March 1929, [The Last of the Belles] F. Scott Fitzgerald著

『ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック』村上春樹著, 2007

『『グレート・ギャツビー』の世界』宮脇俊文著, 2013

それぞれの資料の雑観やアクセス方法などはサイトに置いてある。

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